「お前、良かったじゃないか。いろいろ学べるぞ」
大怪我をしてリハビリ中のウォリアーズの選手に、監督の三沢英生は決まってそんな声を掛ける。本気でそう言えるのは、三沢自身が選手時代に大きな怪我をしているからだ。
右膝を激しく痛めたのは、大学3年の秋の終わりだった。前十字靱帯が断裂しており、戦列復帰までに長い時間が必要だった。怪我をしたての頃は悔しくてたまらなかったが、やがて気持ちを切り替えて、というよりは諦めて、リハビリに打ち込んだ。戦列を離れたからこそ見えてきたのが、スタッフたちの尽力だった。
「正直、あの怪我までは、調子に乗っていましたからね。左タックルという花形のポジションを低学年から任されて、身体はデカいし、わりと速いでしょ」
スタッフのことなど、はっきり言えば、眼中に入っていなかった。しかし怪我による長期離脱を強いられたおかげで、それまでは見えていなかった、いろんな人の献身や尽力が目に入ってくるようになっていたのだ。
<ああ、なんでこいつらを、俺はちゃんと見ていなかったのか……>
その後、社会人となってから、三沢がふたたび肩で風を切っていた時期もある。外資系金融機関で桁外れの大金を動かすようになっていた頃だ。しかし、それももはや昔の話だ。
ウォリアーズの監督となった三沢は、フラットという変革のキーワードを打ち出し、上下関係のない、新しい部活動の世界を作ろうと試みている。
「いろんな役割があるだけで、上も下もないですからね。でも、大学時代のあの“原体験”がなかったら、心の底からそう思えていたかどうか……」
大怪我をするまでの三沢に見えていなかったのは、スタッフだけではない。控えの、実力的には公式戦に出場するのが難しい選手の頑張りも、見えていなかった。
控えのまた控えという立場ながら、アメフトにも部活動にも本気で取り組んでいた選手の象徴が、三沢と同じオフェンスラインの同級生で、同期の誰もが親しみを込めて「トベちゃん」と呼んでいた戸部康俊だ。
トベちゃんは大柄で、身長は大学入学時点で189cmだった三沢より高く、体重も100kgを超えていた。しかし、なぜか極端にヒットが弱く、クオーターバックをプロテクトするというオフェンスラインの重要な役割をどうしても果たせない。だから、控えの中でも、公式戦には絶対に出場できない選手のひとりとなっていた。
それでもトベちゃんは絶対に練習をサボらず、練習中も手を抜かず、率先して声を出していた。控え選手たちが仮想敵となり、試合に出場するレギュラー組が作戦の精度を上げていく実戦形式の練習では、いつもトベちゃんが仮想敵の中心にいた。対戦相手をよく研究し、控え組の部員に周知徹底して、レギュラー組の練習台となっていた。
当時はスタッフとして入部してくる学生がほぼおらず、怪我などで選手を断念した部員がマネージャーやトレーナーを務めていたので、人手は常に足りなかった。練習中のビデオ撮影など、誰もやりたがらない雑用を、いつも買って出ていたのがトベちゃんだった。部内の誰もが、なんであれトベちゃんに任せておけば大丈夫だと思うほど、人として信頼されていた。誠心誠意が言動から溢れていた。
三沢が試合に復帰できたのは4年の秋になってからだ。初戦の対戦相手は中央大学で、三沢のトイメンに強力なディフェンスラインの選手を擁していた。
三沢の心は、第1クオーターの最初の数プレーで、折れかけていた。トイメンのその選手はあまりに俊敏で、まともに立ち向かっても止めようがない。三沢の右膝にはまだ痛みが残っており、試合勘も完全に鈍っている。
<このままだと、まったく歯が立たない……>
なんとかしてここから逃げ出せないだろうか。三沢はそう思うほど、逃げ腰になっていた。仮に万全の状態だったとしても、敵わない相手だったのかもしれない。
幸いにして、三沢がこてんぱんにやられていた局地戦は、大勢に影響を及ぼしていなかった。それでも1対1での劣勢は明らかだった。最初の攻撃を終えてサイドラインに戻ってきた三沢は、誰にというわけではなく訴えた。
「ヤベえ、もう無理だ。代わってくれ!」
すると間髪容れず、強い声が聞こえてきた。
「おい、何を言ってる。お前の代わりが、誰にできるんだ!」
トベちゃんだった。
「ぜんぜん大丈夫だよ。ぜんぜん勝ってるよ。お前のほかに誰がやるんだよ! 俺らの代表として戦ってこいよ!」
三沢は正気に返り、闘志を取り戻す。気持ちを切り替え、次の攻撃からは反則まがいのプレーの連続で、トイメンの選手をかろうじて止めつづけた。
「おい、テメえ、ホールディングしてんじゃねえぞ!」
「しょうがねえだろ。止まらねえんだから!」
「オメえ、負け、認めてんじゃねえよ。馬ぁ鹿!」
トイメンの選手は審判にも訴えた。
「コイツ、ずっとホールディングしているよ!」
ほとんど反則同然のプレーになっているのは、三沢もわかっていた。しかし、もう恥もへったくれもなかった。
<本当はトベちゃんだって、試合に出たいはずなんだ。ヤツらの思いも、俺は全部背負っている。やらなきゃいけない。なんとしても粘りきるしかない>
三沢はしのいで、しのいで、しのぎきった。内容的には完敗を認めるしかない1対1だったが、最後までクオーターバックを守り切り、反則も取られなかった。気弱になり、逃げ出しかけていた三沢が、なんとか踏みとどまれたのは、トベちゃんのおかげだった。
当時の関東1部リーグは「Aブロック」と「Bブロック」を並列させるフォーマットを採用しており、強いチームはAとBに分散するようになっていた。裏を返せば、1部では弱小に分類されるチームもAとBそれぞれに混じっていたので、大差がつく試合もあった。
東大にも、第2クオーターの途中で事実上勝利を決めた試合があった。オフェンスラインのパート長で、誰を起用するか、用兵も任されていた三沢は、経験を積ませるために下級生の控え選手から、その試合に出していった。やがて第4クオーターを迎え、残り時間が少なくなる頃、近くにいた同期の選手に声を掛けた。
「トベちゃん、出る?」
公式戦出場は、4年生の秋になった、この日までない。
「え、いいの?」
次の攻撃で、トベちゃんは自分のポジションであるセンターに入り、大学4年間で唯一の公式戦を戦った。時間にしてほんの数分の晴れ舞台に幕が下り、サイドラインに戻ってきたトベちゃんが、わざわざ伝えにきてくれた一言が、三沢は忘れられない。
「ありがとうネ」
右膝の前十字靱帯を断裂してから、三沢は無力だった。
<今の俺、ただデカいだけの、木偶の坊じゃん>
時には、もう二度と試合に出場できないのではないかと不安に駆られ、胸が苦しくなりもした。
<トベちゃんも、やっぱり、出たかったんだよな>
三沢は今でも、この友人の喜びが伝わってきた、あのシーンを思い出す。端から見れば、ただの選手交代であっても、三沢には忘れられない、いや忘れてはいけない瞬間になったのだ。
――――◇――――◇――――◇――――
2018年12月2日の国士舘大学戦は、第2クオーターまでに3つのタッチダウンを奪われ、ウォリアーズは7-21とリードを許してハーフタイムを迎えていた。公式戦に出ていない控え選手を、送り出せるような展開にはなっていない。
第3クオーターで13-21と点差を縮め、第4クオーターの開始直後には、ついに21-21と試合を振り出しに戻す。しかし、残り9分15秒でフィールドゴールを決められ、東大は21-24と3点をリードされた。フィールドゴールを決め返し、24-24とふたたび同点に追いついた時、試合の残り時間は6分1秒となっていた。
同点のまま、時間だけが刻々と過ぎていく。三沢と森が望んでいた展開にはならないまま大詰めを迎え、しかも最後のプレーで国士舘大のフィールドゴールが決まり、ウォリアーズは敗れた。長期離脱明けの4年生、ディフェンスラインの松井健には、最後まで出番が回ってこなかった。
試合後、それでも笑顔の松井に、三沢は掛ける言葉がなかった。表面に出していないだけで、松井の胸中にはさまざまな思いが渦巻いているはずだ。
<1プレーだけでも、出してあげたかった>
三沢はそう思いながら、同時に信じていた。試合に出ようが出まいが、人として松井は成長してくれている。
「ウォリアーズで、アメフトに打ち込んで良かった」
そう思える日が、必ずいつか訪れる。
――――◇――――◇――――◇――――
チームにぶら下がっているのか、それともチームを支えているのか――。
お祭りの神輿(みこし)に、よもやぶら下がる人はいないだろう。万が一いたとすれば、他の担ぎ手の負担が増える。ぶら下がる人のほうが多くなれば、神輿は動かない。逆に、一人ひとりの力は小さくても、全員で支えあえば、重たい神輿でも遠くまで運べるだろう。
主将の楊暁達は、TOP8昇格を決めた桜美林大学戦の試合後、男泣きに泣いた。大所帯のチームで主将を努める重責は、想像以上に重かった。それでも先頭に立ち、チームを引っ張っていかなければならず、自分が抱えるつらさを表に出すわけにもいかない。いくつもの苦しさが重なり、押しつぶされそうになっていた。だからこそ、同期への感謝の気持ちは大きく膨らんでいる。
<ウチの代はみんな、神輿を支えるほうに回ってくれたよな>
しかし――。
最後の試合で国士舘大に敗れたのは、紛れもない事実だった。TOP8昇格という目標を達成し、張り詰めていた部員たちの緊張が多少なりとも緩んでいたのはたしかだったが、パフォーマンスコーチの酒井啓介は、それでも、と思わざるをえなかった。
――日本一を目指しているチームに相応しい、圧倒的なフィジカルを備えていたら、国士舘大に敗れていただろうか?
ウォリアーズの挑戦は、すでに新たな戦いに突入していた。
※文中敬称略。第54話は2024年の夏に公開予定。