「弱い。だから挑むんだ」 東大アメフト部 大学日本一への挑戦 第51話/全66話(予定)

 東大が試合を引っくり返し、3点をリードして迎えた続く桜美林大学の攻撃は、第3クオーターの終盤から第4クオーターの序盤にまたがり、最後は4thダウンギャンブルが失敗に終わる。試合の趨勢を大きく左右するビッグプレーは、その直後の東大の攻撃で飛び出した。

 開始地点は自陣34ヤード。スナップを受けたクオーターバックの伊藤宏一郎は、少し下がりながらタイミングを計ると、前方に思い切ったパスを投げる。楕円のボールは地面とほぼ並行に低い弾道で飛行する。

 回転しながら飛んでいく楕円球は、それをキャッチしようと前進していたワイドレシーバー東谷健人の頭上すれすれを、越えていきそうになる。伊藤と同じく3年生の東谷は前進を続けながら後ろを振り返り、自分を追い抜こうとしているボールを両手で受け止めた。

 キャッチした直後、勢いあまって、つんのめりそうになりながら、東谷はスピードをほぼ落とさず、左腕でボールをホールドすると、背筋を伸ばした綺麗なランニングフォームで加速する。追走してくる桜美林の守備者と距離は縮まらず、東谷はそのままゴールラインを駆け抜けた。

 ロングパスからの独走という、会心のタッチダウン。東大のオフェンスラインはクオーターバックの伊藤をしっかりプロテクションできており、伊藤が投げたパスもほぼ完璧だった。

 4年生のオフェンスコーディネーター平賀慎之介は、この攻撃の布石を前節の横浜国立大学戦から打っていた。桜美林に、この展開になれば、東大のワイドレシーバーの前進は縦に進んだあと、外側に斜めに流れていくと思い込ませておくためだ。実際には縦に進んだあと、中に斜めに入っていく。守備の裏をかいていたので、東谷は相手にタックルされない距離を保ったまま、ボールをキャッチできたのだ。

<へえ、ここでやるんだ。おもしれえな、あいつ>

 ディフェンスコーディネーターの有馬真人は感心していた。桜美林が4thダウンギャンブルに失敗した直後の、少なからず落胆しているであろうこのタイミングで、あのコールを出すのかと。

<さすがやね>

 同期のオフェンスコーディネーター平賀を心の中でそう賞賛しながら、有馬は嬉しい悲鳴を上げていた。

<また、ディフェンスかぁ(笑)>

 ディフェンスの選手たちは休む間もなく、めいめいが自分の次の役割を果たすべくフィールドへと飛び出していく。

「たまたま、ではありません」

 ヘッドコーチの森清之は、東大が逆転したタッチダウンも、リードを広げたタッチダウンも、どちらも蓄積の産物だと受け止めていた。平賀のふたつのコールは、森もここだと思うタイミングで出されたものだった。

「日々の練習だったり、ミーティングだったり、その積み重ねです。コールも良かったし、それを相手がいるフィールド上で、しかも1年間の努力が全部懸かった大事な試合の勝負どころで、いつも通りにきちんと実践できたというのは、当たり前のようで、なかなか難しい話ですから」

 スコアは24-14となり、東大のリードは10点に広がった。

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 この日のウォリアーズは、全身白ずくめのユニフォームを着用している。チームカラーのブルーとゴールドは、背番号とヘルメットに使われていた。ヘルメットはゴールドを基調としたもので、背番号がブルーだ。同じ番号を胸にも入れている。

 背番号52番の4年生、加藤大雅は、ディフェンスラインを構成している。ディフェンスのポジションは、ディフェンスラインが最前線に並び、ディフェンシブバックが最後尾に位置して、その中間にラインバッカーが入る。この日の東大は前方からディフェンスライン4人、ラインバッカー3人、ディフェンシブバック4人という布陣を採っている。

 もともとラインバッカーだった加藤大雅は、2年生の途中でディフェンスラインに転向することになり、体重を10kg以上増やさなければならなくなった。

 朝ご飯を食べると、ソファーで少し横になり、起きてからまた食べる。大学に着いてからまた食べて、次に昼ご飯を食べて、そのあと間食して、練習前にちょっと食べて、終わってからまた食べる。

「もう食べたくない……」

 そうこぼす息子の苦しげな表情を、東大側応援スタンドの加藤政徳はよく覚えている。大学に入学した頃、80㌔もなかった息子の体重は、桜美林戦では100㌔を超えていた。

 加藤大雅は、いつ、いかなる状況でも、

「大丈夫です。任せてください」

 と、監督の三沢英生に請け合う選手だった。三沢は内心たいしたヤツだと思っていた。

<こいつは絶対、心が、折れないからな>

 自信満々に任せてくださいと啖呵を切れるほど、身体能力に恵まれた選手というわけではない。むしろディフェンスラインの選手としては小さいほうだ。しかし「楽勝です。やってやりますから」と言う通り、いつも全力で戦ってくる。そのための努力を加藤大雅がどれだけしてきたか、監督の三沢は知っていた。

 観客席には加藤政徳の娘と息子も訪れていた。大雅の2歳下の妹と、5歳下の弟だ。妹は医師を目指し、医学部で学んでいる。小学6年生の夏に母親を亡くしてから、娘が勉強を必死に頑張る姿を、父親の加藤は近くで見守ってきた。

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 桜美林も底力を見せ、試合の残り時間が5分になろうかという時、パスプレーからタッチダウンを奪い、そのあとのキックも決めて、スコアを24-21として3点差まで詰め寄っている。勝負の行方はまだどうなるかわからない。

 続く東大の攻撃はわずか1ヤードしか進めず、4thダウンはパントキックを選択する。次の守備でタッチダウンを許せば、逆転されるというその重要なパントで、パンターの伊藤拓は53ヤードを回復する見事なキックを蹴り、桜美林の攻撃開始地点を敵陣16ヤードまで大きく戻す。

 迎えた桜美林の攻撃は、クオーターバックからの中距離のパスがやや乱れ、レシーブしようとした選手がボールを弾いてしまう。楕円球は空中で回転しながら、東大の3年生ラインバッカー中原愉仁の正面へ真っ直ぐ飛んでいく。中原が難なくそれをキャッチした瞬間、インターセプトとなり、桜美林は残り3分25秒で攻撃権を失った。

 東大の攻撃を挟んで、残り時間は1分55秒となった。続く桜美林の攻撃は自陣5ヤードからで、逆転のタッチダウンを奪うには95ヤード前進しなければならず、フィールドゴールで同点に追いつくためにも60ヤードは陣地を回復しておかなければならない。

 結局、7ヤード前進したところで4thダウンを迎え、希望を繋ぐためのギャンブルに打って出たが、パスプレーはインコンプリートに終わった。

 試合の残り時間は1分13秒。桜美林はタイムアウトを使い切っており、もはや時計を止める権利はない。事実上、東大のBIG8優勝と、TOP8昇格が決まっていた。

 東大は最後の攻撃で、スナップを受けたクオーターバックが自ら地面に膝をつけるニーダウンでプレーを止める。計時は止まらないので、ノーリスクで時間だけを消費できるのだ。やがて場内の電光表示の計時が10秒を切ると、ウォリアーズの応援席からカウントダウンの大合唱が始まった。

「じゅう、きゅう、はぁち、なぁな、ろぉく、ごおぉ、よぉん……」

 東大側応援スタンドの加藤政徳は、涙を堪えることができなかった。子供たちと抱き合いながら、言葉にならない大きな喜びを分かち合った。

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 ウォリアーズがTOP8昇格を決めた夜、2017年の主将だった遠藤翔は同期の面々と、新宿の居酒屋で祝勝会を開いていた。地方に勤務している者もいたので全員は揃わなかったが、25人ほどの同期が集まった。カラオケ店に場所を移した2次会で、曲を入れて歌う者はほとんどいなかった。4年間苦楽を共にした者たちの話は、夜更けまで尽きなかった。

 コーチとしてこの1年間、学生たちの努力を近くで見てきた遠藤は、後輩の頑張りが報われて嬉しい反面、悔しさがこみ上げてくるのを抑えられなかった。

<なんでこれを、去年できなかったのか>

 気の置けない同期の前で、はばかることなく涙を流す遠藤の気持ちが、川原田美雪にはわかる気がした。2017年の主務だった川原田も、昇格が決まってからしばらくは嬉しさだけが溢れていたが、それが落ち着くと、胸中でさまざまな感情を持てあますようになっていた。

 悔しさにもいろいろあった。遠藤と同じく、自分たちの代で昇格できなかったのが悔しくもあり、次の代をBIG8で戦わせてしまった不甲斐なさも悔やまれた。2017年に昇格を決めていたら、今日、後輩たちはもっとすごいことをやってのけて――TOP8で私学強豪の早稲田や法政を倒すなどして――、喜んでいたのかもしれない。

<私たちに、何が足りなかったんだろう……>

 遠藤を慰めながら、川原田にも、その答えは簡単には見つかりそうになかった。

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 監督の三沢が、川原田や遠藤の代に重ね合わせてしまうのが、1994年の4年生たちだ。三沢にとって1学年上のその先輩たちは、最上級生となった94年に、あえて長期的な視点に立ち、翌年以降に活かせる土台を築こうとした。目先の1年だけにとらわれず、数年先に甲子園ボウルの出場権を争えるようなアメフト部にしていくための改革だった。

 なぜ、そのような視点を持てたのか。理由はひとつだけではなかったが、1993年の代が残した教訓は大きなものだった。当時のウォリアーズは上昇気流に乗っており、93年の4年生たちは、今年こそ甲子園ボウルを狙えると意気込んでいた。しかし、気負いすぎるあまり、過度にハードな練習を繰り返し、怪我人を続出させてしまうのだ。秋の公式戦はまともな戦いにならず、皮肉にも、まさかの全敗という結果に終わる。

「下級生ができるだけ活躍できる環境を、俺たち4年が作っていこう。それを最初にみんなで決めました」

 そう振り返るのは、三沢の1学年先輩で、1994年の改革で当事者となった関根恒だ。

「次の10年の基盤を作った、本当に素晴らしい代でした。その意味では、遠藤や川原田の代だって――」

 2017年の4年生たちを、三沢は次のように評している。

「立派な代でした」

 現場を預かる森の評価も、三沢と同じだ。たしかにTOP8昇格を決めたのは2018年の代だった。それは非常に素晴らしい。それでも――。

「遠藤や川原田たちの代が見せていたのは、同じぐらいか、それ以上の頑張りでした。だからこそ、今年の代で、昇格できたのだと思います」

 ウォリアーズはこうして、当面の目標を達成してみせた。しかし、戦いが終わったわけではない。最終節の国士舘大学戦に、全勝優勝が懸かっていたからだ。

※文中敬称略。

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Written by

株式会社EDIMASS 
手嶋 真彦Masahiko TEJIMA

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