「弱い。だから挑むんだ」 東大アメフト部 大学日本一への挑戦 第50話/全66話(予定)

 そのコールを平賀慎之介が出した時、第3クオーターの残り時間は4分を切っていた。どこで使おうか、ベストのタイミングをオフェンスコーディネーターの平賀が探っていたコールだった。18時15分に始まった桜美林大学戦は9-14というスコアのまま、東大は5点のリードを許していた。

 アメフトのチームはまず例外なく、そのシーズンの軸に据える攻撃のパッケージをいくつか持っている。もっとも得意としていて、相手を問わず、ここぞという場面で自信を持ってコールできるパッケージだ。

 攻撃のパッケージには「表」と「裏」がある。野球のピッチャーがストレート一辺倒を避け、変化球を織り交ぜるようなもので、ストレートという「表」を、より速く感じさせたり、より効果的にもできる「裏」がカーブだったり、スライダーだったりするのに似ている。

 例えば東大が、もっとも得意とするパッケージAを試合で使ってくると予想できて、それを阻止しないと勝ち目が薄くなるとわかっている対戦相手は、入念な対策を施してくる。あるいはパッケージAの機能をひとりで低下させうる強力なディフェンスの選手を、対戦相手が擁している場合もある。

 そこでオフェンスコーディネーターの平賀は、もっとも得意なパッケージAを軸に据えながら、Aをより有効に使うためのパッケージBをコールに織り交ぜる。この時のAが「表」で、Bが「裏」だ。

 しかし、第3クオーターの残り時間が4分を切った時、平賀が発した、取っておきのコールは「表」でも「裏」でもなかった。それは平賀に言わせると“一発芸”のような、相手の意表を突いてだませるのは1回きりというコールだった。

 鮮やかにその一発芸を決めてやろうと、平賀は桜美林戦の序盤から布石を打ちつづけていた。東大の攻撃がこう動いた時は、間違いなく真ん中を突いてくると、相手のディフェンスの頭の中に刷り込んでおく。それが布石だと悟られぬよう、巧みに刷り込んでいかなければならない。

 平賀が用意していた一発芸は、一般的には「リバース」と呼ばれる作戦だった。第3クオーターの東大のその攻撃は自陣4ヤード地点から始まり、少しずつ前進して、自陣40ヤード地点まで挽回していた。

<リバースを使うなら、ここだ。向こうは、まったく警戒していない>

<試合の残り時間を考えても、ここだ>

 夜間照明のカクテル光線に照らされたフィールドの様子を見ながら、許される10秒という短い時間で平賀は決めた。

<この試合の、ここが、勝負どころだ>

 ――――◇――――◇――――◇――――

 学生トレーナーの川西絢子はサイドラインの外から、心臓が締めつけられるような息苦しさを感じながら、いつも通り自分の役割を果たそうとしていた。フィールドからベンチに戻ってくる選手の中に、どこかを痛めていたり、出血していたり、しんどそうにしていたり、そういう選手がいるのではないか――。

 担当してきた4年生のランニングバック荒井優志が、試合の立ち上がりにどう見ても重傷の怪我で戦線を離脱した時は、悲しくて、悔しかった。川西たちトレーナーチームが、ひとりの怪我人も出さないように、とくにスターターたちが万全な状態で試合に臨めるように、この桜美林戦を含めてベストを尽くしてきたのは、やはり結果を残すためだった。当面の目標はTOP8昇格であっても、日本一という夢のバトンを後輩たちに託すには、BIG8で圧倒的な勝利を収めていかなければならない。そんな覚悟を川西は持っていた。

 頭の片隅には、不安もあった。もし、この試合に負けてしまえば、TOP8には間違いなく昇格できないだろう。仮にそうなれば、トレーナーチームが進めてきた改革も否定されてしまいかねない。感情は千々に乱れていたが、その中で最善を尽くすしかない。川西もまた必死に戦っていた。

 ――――◇――――◇――――◇――――

<そろそろ来る頃かな>

 平賀からリバースのコールが届いたのは、3年生のクオーターバック伊藤宏一郎も、そろそろだと感じていた時だった。平賀が“一発芸”にたとえるリバースは、「スペシャルプレー」とも「トリックプレー」とも呼ばれる。クオーターバックの伊藤はリバースの直前に受けたコールも、布石のひとつだと受け取っていた。

<スペシャルが本当に使えるか、判断しようとしたのだろう>

 すると本当にリバースのコールが届いた。

<平賀さんが、行ける、と判断したからだ>

 4年生のワイドレシーバー瀬戸裕介は、次の作戦がリバースだと知って、途端にプレッシャーを感じていた。ロングゲインを狙ったこのコールでは、自分がボールを持って長い距離を走らなければならない。相手ディフェンスの付き方を見ても、たしかにリバースが効きそうだった。

 苦い記憶が甦る。2017年秋の駒澤大学戦では瀬戸がトスを取り損ね、満を持して使ったリバースは決まらず、試合にも敗れている。今度は絶対に決めなければならない。いよいよその攻撃が始まる。

 キャプテンでセンターの楊暁達が真後ろにスナップしたボールは、クオーターバックの伊藤が胸元で構えていた両手にきれいに収まった。伊藤は少し左に動いて、後方から前進してきた4年生ランニングバック鍵和田祐輔の胸元にボールを押し込む。いや、ボールを押し込む動作はフェイクで、前進しつづける鍵和田の懐は空っぽだ。伊藤はボールを持ったまま左に動きつづけ、釣られた桜美林のディフェンスは重心が完全にそちらの方向に傾いた。

 次の瞬間。ひとりだけ違ったベクトルで動いていたのが瀬戸だった。左のサイドライン際から右方向へフィールドをほぼ真横に走る瀬戸のほうへ、逆方向に動く伊藤がすれ違いざま、ボールをトスする。そのトスをしっかり受け取った瀬戸は右に進みつづけ、緩やかな弧を描きながら前を向いた時、そこには広大なオープンスペースが広がっていた。トリックプレーのリバースが鮮やかに決まったのだ。

 そこから、どこまで前進できるか――。瀬戸は右腕でボールをしっかりホールドしながら、50ヤードラインを超えて、敵陣に入る。ほぼ事前にイメージしていた通りに走れている。味方のブロックも、まずは3年生のオフェンスライン瀬戸隆四郎が、続いて同じく3年生のオフェンスライン内田貴大が身体を張って、相手を近寄らせない。

 4年生のワイドレシーバー瀬戸裕介は、そこから加速した。ゴールラインまで残り40ヤード、そして残り30ヤードを切った。追走してくる桜美林の複数の守備者をこのまま振り切れたら、タッチダウンもありえる。

 桜美林の選手は斜め後方から迫ってくるので、瀬戸は残り20ヤードを切ると、進路を右斜めに取り、追走から逃げ切ろうとする。残り10ヤードとなったあたりで、瀬戸は桜美林の選手に追いつかれる。しかし、左手を使ったハンドオフでタックルは許さず、相手の選手は倒れ、瀬戸はスピードをほぼ緩めず、さらに前進する。

 ハンドオフで相手の追走を振り切ると、ゴールラインの右端に立てられたオレンジ色のパイロンが、はっきり見えた。ほぼ同時に、斜め後方からもうひとり、桜美林の赤いユニフォームが迫ってくるのがわかった。

 斜めに走ってきたので、タッチダウンできるとしてもサイドラインぎりぎりだ。瀬戸は右手に抱えていた楕円球を両手で持った。そして、オレンジ色のパイロン目がけて、ダイブする。はたしてエンドゾーンの中か、外か――。

 次の瞬間。黒と白の縦じまのシャツを着た審判が、両手を高く上げている。タッチダウンのシグナルだった。ウォリアーズのタッチダウンが認められた。

 東大はその直後、通常の攻撃を選択したトライフォーポイントも成功させて、計8点を加えた。スコアは17-14となり、第3クオーターの残り時間が3分と少しというところで、東大がついに3点をリードした。

※文中敬称略。

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Written by

株式会社EDIMASS 
手嶋 真彦Masahiko TEJIMA

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