企業経営者である加藤政徳は、かつては誰よりも早く出社していた。早朝6時前にはもう仕事を始めていたほどだ。
誰もいないオフィスで、加藤はいらついていた。
<みんな遅い。遅すぎる>
定時前になり、社員たちが出社してきたあとも、心の中では毒づいてばかりいた。
<なんで、これができないのか>
<なんで、こんなことも知らないのか>
<根気がなさすぎる>
<やれば、もっとできるだろ>
加藤は中学生の頃から、空手をやっていた。対戦相手に技を当てず、寸止めにする伝統派空手ではない。グローブも防具もつけずに打撃し合う、フルコンタクトの極真空手を自ら選び、慶應義塾大学で4年生になった春に最後の試合を戦うまで、10年ほど続けた。
<仕事も格闘技と同じだろ>
加藤はそう思っていた。きちんと稽古すれば、誰だって強くなる。誰よりも練習すれば、誰よりも強くなれる。同じことを社員たちにも求めていた。誰よりも努力して、誰よりも成果を出してほしい。
大きな転機が訪れたのは2002年。妻の病が発覚した時だ。
夫婦にとって3人目の子供が生まれて、そのわずか数日後に癌だとわかった。長男が5歳、長女が3歳、次男はまだ0歳の春だった。余命数カ月の恐れもあると診断された。
医師から告知を受けた瞬間、加藤は視界がぐらりと揺れ、腰を抜かした。テレビドラマで似たようなシーンが流れた時、何を大袈裟なと思っていた自分が、カウンセリングルームでへなへなと本当に立てなくなった。病室まで戻る廊下では妻の肩を借りなければならず、病室に戻ってからも妻のベッドにしばらく横たわっていなければならなかった。
生活は一変した。朝はまず長男と長女を幼稚園の送迎バスに乗せ、生まれたばかりの赤ん坊は加藤の母親に預けに行く。いったん自宅に戻って、妻のお昼ご飯をこしらえる。少しでも身体に良いものをと手作りして、入院中の病院に持参する。そのあと少しだけ会社に顔を出し、また病院に戻って、面会時間が終わるまで妻のそばにいる。
看病優先の日々は、長男が小学生となり、中学生となっても続いた。
試練はそれだけではなかった。建設関係の会社を一緒に経営していた加藤の父親が脳梗塞で倒れ、さらには製品の品質に根も葉もないケチがつく風評被害に遭い、売り上げは激減した。
業績悪化に追い打ちをかけたのが、銀行のいわゆる貸し剥がしだった。多い時で240人ほどいた社員は、いつしか60人ほどに減っていた。
――――◇――――◇――――◇――――
加藤の長男は、幼い頃から手が掛からず、生真面目だった。自分でこうと決めたら、先生からの言いつけを含めて、厳守する。手洗い、うがいも言われた通り励行するので、風邪ひとつ引かず、小学校から高校まで無遅刻無欠席を続けた。授業中も食い入るような目つきで、集中しているのが明らかだった。
中学受験で中高一貫校の開成に受かった長男は、ハンドボール部に入った。興味があったサッカー部やバスケットボール部には朝練があり、始発か、その次ぐらいの電車に乗らないと間に合わない。通学の都合に重きを置いて選んだハンドボール部だったが、長男の入部とほぼ時を同じくして急に朝練が始まった。
加藤がよく覚えているのは、ある早朝、中学2年生になっていた長男を見送った時のことだ。長男は怪我をして松葉杖をついていた。最寄り駅まで大人の足で徒歩20分ほど。松葉杖なので、4時過ぎには家を出なければならない。
長男の母親が――すなわち加藤の妻が――亡くなってから、間もない頃だった。外がまだ真っ暗な早朝、松葉杖をつきながら少しずつ遠ざかっていく長男の後ろ姿を隣でずっと見ていた加藤の母親が、ぽつりと呟いた。
「あの子は偉くなるよ。立派な子だよ」
加藤の妻はあの告知から8年5カ月生きてくれたが、亡くした時の喪失感は、言葉にできないものだった。働く気力など、もう湧いてこなかった。
せめて加藤にできるのは、考えることぐらいのものだったので、ろくに出社もせずに考えてばかりいた。仕事って、何のためにしているのだろうか。何のために、これから働いていくのだろうか……。
そんなある日、ふと思い出したのが、加藤がまだ子供の頃、祖父から聞かされた話だった。
祖父は11人兄弟の長男だった。貧しい集落に暮らしており、10人の弟や妹たちを農業だけで養っていくのは難しい。働き者だった祖父は日が落ちると眠り、その日のうちに起き出すと、山の中で炭を焼いた。できた木炭を自分で担いで町まで売りに行き、食料を手に入れ、お金も貯めた。しばらくすると貯まったお金で馬を買い、商いの規模を大きくすると、そのうちダンプカーが買えるようになった。そうやって行商から興した会社を、加藤の父親が継ぎ、加藤も継いだ。
祖父はダンプカーを買うために、炭を作っていたのだろうか。いや、そうではない。燃料になる炭を作って人の役に立ち、引き換えに肉や魚を持ち帰って、弟や妹たちの喜ぶ顔が見たかったのだ。
加藤はかつての自分を恥じた。どうすれば売り上げをもっと伸ばせるか、どうすれば利益をもっと大きくできるか、引き継いだ事業をもっと大きくしなければならない。そんなことばかりに腐心していた。
どうやったら、もっと安く作れるか。どうやったら、もっと高く売れるか。社員やその家族たち、何百人もの人生を預かっているというのに、頭の中を占めていたのは、それこそ合理化や効率化ばかりだった。
仕事って、何のために? 記憶の中の祖父は、こう答えていた。
――誰かの役に立って、大事な人の喜ぶ顔が見たいだろ。
――――◇――――◇――――◇――――
加藤の長男は開成高校から現役で東大に合格し、アメリカンフットボール部に入部した。子供の進路にはあまり口出ししてこなかった加藤だが、アメフトを続けることにはやんわりと反対した。
「大怪我してしまってからでは、遅いでしょ」
加藤はもともと心配していたところに、自分の母親や姉からそうした否定的な意見を聞かされて、さらに不安を膨らませていたのだ。加藤に反対されても、長男は無言だった。
しかし、本当はしょげていた。人づてに長男の本心を知った加藤は、ああ、だめだなと思った。
<やらしてあげなきゃ、だめだな>
反抗期もまったくなかった息子のことだ。このままだと俺の言うことを聞いてしまう。親父に言われてやめて、心底から納得できるだろうか。自分でやると決めたアメフトなのだ。どんな怪我をしたとしても、もう18歳なのだから、その事実を受け入れられるのではないか。もちろん、まだ18歳なんだけど……。
その頃、加藤は、以前とは別人のように変わっていた。感謝の言葉ひとつを取っても、自然と心の底から、ありがとう、と言える。以前は、心にもないのに、その5音を発している時もあった。打算の、ありがとう、すらあったのだ。
経営している会社も変わっていた。展開しているさまざまな事業には、一見、何の繋がりもないように思えるものもある。以前ほど、合理的ではないかもしれないし、効率的でもないかもしれない。しかし、すべての事業に通底している願いはある。世の中こうなっていったらいいな、という願いを、あらゆる事業に込めている。
収支はきちっと合わせながら、困っている人の力になったり、もっと便利にできるところを便利にしていったり、さらにはそういう取り組みをどんどん真似してもらって、世の中に広がっていけばいい。加藤はそう考えている。エネルギーのそういう使い方をしていると、正しいことをしている実感が湧いてくる。
60人ほどに減った社員は、どんどん増えていた。会社が潰れず続いてきたのは、自分が仕事に集中できず、やがて気力を失い、腑抜けのようになっている間も、ずっと支えてくれた社員たちのおかげだった。
人の役に立って、社員や家族の喜ぶ顔が見たい。
会社の原点はそこにある。
――――◇――――◇――――◇――――
息子が始めたアメフトがどんなスポーツか、加藤はほとんど知らなかった。1年生の間に試合を二度ほど観に行ったが、いわゆるフレッシュマンプレーヤーはまだユニフォームをもらえず、お揃いの白いポロシャツを着た息子が担架を持って、怪我をした選手を運び出す姿をチラッと見ただけだった。
息子が2年生になると、試合があるたびに会場を訪れて、同級生のお父さんやお母さんたちと仲良くなり、近くの席でいろいろ教わりながら観戦するようになる。お父さんの中には、学生時代にアメフトの選手だった人もいて、彼らに勧められてNFLの試合も録画して観るようになった。息子の同期のスチューデントアシスタント有馬真人の父親が、実は加藤の高校時代の同級生だったという、後日知ることになる奇遇もあった。
2018年の春に息子は4年生になり、夏には加藤が「一般社団法人東大ウォリアーズクラブ」の代議員を、ファミリークラブの代表として引き受けた。
加藤には、大切にしている記憶がある。息子はよく、ウォリアーズの練習後、同級生を自宅に連れてきた。たいてい10人前後の大人数だった。その頃すでに加藤は、家族みんなで神奈川県から東京都の都心に越していた。
息子が連れてきた同級生たちに、加藤があり合せの材料で手料理を振る舞う夜もあった。帰宅した高校生の長女が、汗臭い練習着だらけの部屋に入ってくるなり、
「え、なに、くっさ!」
と、異臭を訴えた夜もあった。
「この部屋なんで、こんなに臭いの。え~私、可哀想ぉ。女子高生がこんな目ぇに遭わされてぇ」
同級生たちが、そのまま泊まっていく夜もある。人数が多いので、リビングで布団も敷かずに雑魚寝する。あれはたしか、息子たちがまだ2年生の頃だった。電気を消して、寝る体勢に入ってから、誰ともなく呟くのが、加藤にも聞こえてきた。
「はぁ~……つれえなぁ」
「はぁ~……辞めてえなぁ」
リビングとは簡単なパーティションだけで仕切ってある隣のキッチンで、音を立てないように、静かに仕事をしていた加藤も、その呟きを一緒に聞いていた。
4年生になっても、同級生たちは泊まりにきていた。雑魚寝しているリビングから、同じように呟きが漏れてくる夜もあった。
「ぜってぇ、勝つ」
「おお、ぜってぇ勝つ」
もう泣き言は、聞こえてこなかった。
隣のキッチンで加藤は感慨深かった。
<みんな、逞しくなったよな>
<この子たちは、一緒に乗り越えてきたんだな>
辞めずに続けてくれたのが、嬉しかった。嫌なことも、思い通りにならないことも、あったに違いない。でも、続けたからこそ、得られるものがある。この先、壁にぶつかった時、アメフトを通して得たものは、息子たちの支えになるだろう。
あれだけ生真面目だった息子も、いつからか融通が利くようになっていた。親のひいき目なのかもしれないが、あえてピシッとしないほうが、その場の雰囲気をよくできる場合もあるというように、いろいろ察しながら、振る舞うようになっているようだ。
泊まりにくる同級生の中には、スタッフもいる。みんなでわいわいやって、仲良く雑魚寝している姿は、微笑ましいだけでなく、加藤にしみじみ思わせた。
<この子たち、みんなそれぞれ愛されていて、それぞれ頼られているよな>
<社会もこういうふうに、なっていけばいいのにな――>
一人ひとり、自分に合った仕事ができて、自分らしい生き方ができる。みんな没頭できる何かを持っていて、それぞれ頼りもするし、頼られもする。
ディフェンスも、オフェンスも、キッキングチームも、スチューデントアシスタントも、トレーナーも、マネージャーも、マーケティングスタッフも、自分の任務をそれぞれ一生懸命果たそうとしていて、4年生になれば全員頼られる存在になっている。社会に出てからも、そういう人になってほしい。
加藤は、自分自身に言い聞かせるかのように、思うのだ。自分だけよくても、幸せにはなれない。みんな幸せになって初めて、自分も幸せになれる。息子たちも、そう思える人になってほしい。
大学まで空手に打ち込んだ加藤には、集団スポーツを本格的にやった経験がない。個人競技の、しかも武道には、それゆえの良さがある。ただ、自分の過去を振り返ると、視野が狭いまま、しかも頑なになっていた。自分と違ったやり方の人もいるし、やってもできない人だっている。そんな当たり前のことすら、わからないまま、社会に出てしまった。
アメフトは大人数でやるところがいいと思う。いろんな役割があって、みんな立場は違っているのに、目指しているのは同じ目標なのだ。役割が違っているからこそ、それぞれリスペクトし合えるこのスポーツを通して、人格を形成してきた息子が、ユニフォームを着て、フィールドで戦っている姿を、加藤はまぶしく感じることもある。
しかし、この日の加藤は東大側の応援席で、ハラハラしどおしだった。試合は折り返しを過ぎ、第3クオーターに入っていたが、スコアは9-14のまま、桜美林大学に5点のリードを許している。
加藤は以前、このアミノバイタルフィールドの男子トイレで、ハーフタイムに嘔吐している選手の苦しげな声を聞いたことがある。個室から出てきたのは、よく知っている息子の同級生だった。
その日の夜、息子に確かめた。あいつ、具合が悪かったみたいだけど、大丈夫かな。返ってきたのは、平然とした息子の声だった。
「みんな吐いてるよ。俺もそうだから」
アメフトは痛くて、恐い。恐怖のあまり、食べたものを戻してしまう。そこまでして、みんな続けているのは、仲間のためなのだろうと、加藤は思う。それぞれ果たさなければならない役割を担っているのだから。
なんとかして勝たせてやりたい。そう念じていた加藤は、もはや祈るような顔になっていた。
神様どうかお願いします。
この子たちをどうか、勝たせてやってください。
※文中敬称略。