「弱い。だから挑むんだ」 東大アメフト部 大学日本一への挑戦 第45話/全66話(予定)

 8月に入って夏合宿が終わると、そこからはもう、あっと言う間だ。9月になれば、秋の公式戦が始まる。2週間に一度、予定の日時を迎えると、待ったなしで真剣勝負が始まり、衆人環視の中、2時間かそこらで決着がついてしまう。準備のための長い時間に比べれば、ほんの刹那の試合だからこそ、本気で取り組んできた誰もが、自問自答せざるをえなくなる。本当に、とことんやり切ったのか――。

「できる限りの準備はしておきます。でも、じゃあ、お前の“できる限り”って何なの? と聞かれると、明確な答えはないんです。これだけこなしておけばいいという、何かがあるわけではないですから。切りがないと言えば、どこまでも切りがない」

 と言う通り、ヘッドコーチの森清之は、終わりのないそうした準備を、長い年月、繰り返してきた。結局最後はいつも時間切れになり、否応なく試合に臨む。そして戦いを終えたあと、森が自分の準備に満足することはない。

――もっと、こうできた。

――あれを、やっていたら。

「それもまた、後ろめたさになるんです。やましさ、と言うべきなのか」

 と、森は言う。

「僕はもう、その連続なんで、こうやって飽きもせず、長いこと続けていられるんです。続けてきた原動力は、好きだから、楽しいからというより、本音を言えば、後ろめたさを含めた贖罪の気持ちのほうが大きいです」

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 2018年の主務、照真帆は、父親の仕事の都合で高校3年間をアメリカで過ごした。アメリカの高校では黙っていると、誰にも相手にしてもらえなかった。照は積極的に主張するようになり、高校を卒業する頃には、思っていることを、遠慮せず言えるようになっていた。

 2015年に東大に入学した照は、縁あって、その春からウォリアーズのマネージャーとなり、2年生になった2016年は自ら手を挙げて試合の応援を担当するようになる。

 ウォリアーズの部内に、暗黙の了解があるのは、察しがついていた。下級生は、上級生に言われたことをやっておけばいい。

<でも、本当にそれでいいのかな……>

 照はアメリカで年に1回、自分の高校の応援という名目でアメフトの試合を観戦していた。アメリカの高校に入学するまでアメフト自体をほとんど知らず、ルールもよくわかっていなかったが、スタンドが一体となる応援は純粋に楽しめた。それと比べると、ウォリアーズの応援はバラバラなだけでなく、えげつない野次も聞こえてくる。いつしか照は、こんな思いを募らせるようになっていた。

<応援を変えていけば、日本でもアメフトが、もっと盛り上がるかもしれない>

 問題は、スタンドに上がりたいという照の希望が、認められるかどうかだった。試合中のマネージャーはサイドラインのすぐ外で、給水のボトルを用意したり、防具のチェックをしたり、やらなければならない仕事が多い。

 ちなみにマネージャーの数は、年によって増えたり、減ったりする。たまたま2016年は人手が足りていたのと、アメリカ帰りの照の主張に説得力もあったので、マネージャーから照を応援担当に回すことになった。

 しかし、希望が通ってからのほうが大変だった。応援を改善しようと試みる照の前に立ちはだかったのは、保守的な東大生の気質でもあった。前例にとらわれない照は、応援を一緒に担当した5年生(照が1年生の時の4年生)と衝突することも厭わなかった。部員のこうした取り組みを温かく、そして厳しく見守る三沢英生や森は、まだウォリアーズにいなかった。

 その年の最終戦、2016年12月17日のチャレンジマッチは、東大側の応援スタンドが観客で溢れかえった。ウォリアーズはその入れ替え戦に敗れ、応援席が期待していたTOP8昇格こそ叶わなかったが、照は褒められた。

 選手の家族やウォリアーズのOBを中心とする観客は、以前はバラバラに声援を送っていただけだった。ところがこのチャレンジマッチでは、もちろん全員ではなかったとはいえ、声を合わせてコールを送ったり、リズムを揃えてスティックバルーンを叩いたり、一体となって東大を応援していたからだ。

 大量のスティックバルーンを差し入れてくれたのは、東大本郷キャンパスの最寄り駅付近で飲食店を営む寺尾将幸だった。2018年に「一般社団法人東大ウォリアーズクラブ」が設立されると、寺尾はファンクラブ代表枠で法人の代議員にもなっている。

 2016年のチャレンジマッチを終えて、照は決意を新たにした。

<よし、これからも自分の主張は伝えていこう。もし私が間違っていたら、その指摘をちゃんと聞けばいいんだから。どんどん積極的にやっていこう>

 照は3年になると、ウォリアーズにあった「部活動最優先」という暗黙の了解にも小さな風穴を開けている。部活動と就職活動が重なった時、はなから就活を断念するのは違うのではないかと主張し、議論になったが、認められたのだ。

 議論になったおかげで、自分の至らなさも見えてきた。これはおかしいと異議を唱えるには理由が必要で、周囲を説得するには丁寧な説明も必要だ。しかし、それまでの照は、だって、おかしいじゃんと、結論のみを押しつけようとしていた。

 3年から4年になる時には、後輩のマネージャーから苦言を呈された。思い当たる節はあった。マネージャーが受け持っているもろもろの業務を、ほったらかしにしているように後輩には見えていたのだろう。実際、練習後の照は、他のマネージャーが片付けをしている間に、選手とコミュニケーションを取っていた。照には照なりの考えがあってそうしていたつもりだったが、遊んでいるように見られていたのであれば、自分の主張を押し通してばかりもいられない。

<もっと、ちゃんとしなくちゃ、いけないな>

 照が主務になったのは、そう思っていた頃だった。

 ――――◇――――◇――――◇――――

 選手の親から、照はよく言われた。2年になって、試合当日、観客席に上るようになってからだ。

「いつもお世話してくれて、ありがとう」

 腑に落ちない、ねぎらいの言葉だった。

<選手と同じ時間をかけて、同じ熱量を持って、私だってやっている。一緒に戦っているつもりなんだけど……>

 しかし4年になると、照は「たかがスタッフ」というフレーズに、どこか納得してしまっている自分に気がついていた。マネージャーにできるのは、選手をフィールドに送り出すところまでなのだ。自分でタッチダウンを決めるなど絶対に叶わない。

 そんなある日、夏合宿を終えて、本郷キャンパスの御殿下グラウンドで練習していた時のことだ。雷雨により、急きょ練習は中止になった。

 マネージャーは、ビデオ撮影用のやぐらを元に戻したり、給水用のボトルを洗ったり、雨に濡れながら後片付けをしなければならない。選手は急いで部室に戻る。そういうものだと、照も思っていた。

 ところが、その日は違っていた。選手が自主的に後片付けを始めたのだ。雨がざあざあ降っていて、時折稲光がして、遠雷も轟く中、主将の楊暁達ら幹部が、てきぱきと選手たちに指示を出している。みんなで分担すれば、たしかに早く終わる。でも……。照は見慣れぬその光景に虚をつかれ、ぽかんとしていた。

「これ、どうすればいい?」

 ふいに話し掛けられて、照は我に返った。選手のひとりが隣にいて、ボトルのキャップを開けながら、照に聞いていた。次はどうすればいいか、教えてほしいと。

 4年生のワイドレシーバー瀬戸裕介だった。

 その瞬間、涙がこみ上げてきた。

 選手とのコミュニケーションに照が熱心だったのは、垣根を越えたいと思っていたからだ。選手とマネージャーの間を隔てている垣根。それをマネージャーのほうから越えていけば、強い信頼関係が生まれるのではないか。その信頼関係もまた、チームを強くするのではないか――。

 激しい雷雨の中、選手のほうから、その垣根を越えようとしてくれている。しかも、よりによって瀬戸だった。エースのひとりであり、マネージャーとはもっとも遠くにいると、照が勝手に距離を感じていた選手だった。

 だから、涙がこみ上げてきた。というのは、後から考えたことだった。その時は、目の前で突然起こった出来事に、ただ感動していたのだった。

※文中敬称略。

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Written by

株式会社EDIMASS 
手嶋 真彦Masahiko TEJIMA

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