1997年の春に東大生となった小笹和洋は、アメフトにのめり込む。3年生になると、それこそ24時間365日アメフト漬けの日々に明け暮れた。
ウォリアーズは三沢英生の次の代が4年になった1996年にプレーオフ初出場を果たしていたが、小笹が入部した1997年以降は毎年その手前で敗れ去っていた。小笹が2年の時は東海大学に1点差で敗れ、3年の時は帝京大学に敗れ、これらの敗戦が響き、どちらの年もプレーオフ進出まであと一歩のブロック3位で姿を消している。
東大アメフト部には、明らかな傾向がひとつある。毎年、春と秋では別のチームのように変貌を遂げるのだ。大学からアメフトを始める選手がほとんどなので、伸びしろは大きく、日進月歩で成長していくからだ。
小笹が3年の1999年は、関東1部リーグ5連覇中の王者、法政大学を春のオープン戦で本気にさせていた。結局、そのオープン戦に敗れはしたが、アメフトでは僅差の7点差まで詰め寄っての敗戦だったという経緯もあり、その年の秋にプレーオフ進出を逃したのが、小笹は悔しくてたまらなかった。
法政大と互角に戦ったチームから4年生がごっそり抜けると、東大は一時的に弱体化する。最上級生となった小笹の代は層が薄く、4年生のレギュラーはオフェンスとディフェンスそれぞれに3~4人ずつしかいなかった。なかでもオフェンスラインとディフェンスラインは、どちらも経験不足が明らかだった。
ただ、小笹のひとつ下の代には好素材が多く、選手層にも厚みがある。事実、彼らが4年になった2001年の東大は、5シーズンぶりにプレーオフ進出を果たしている。
「今にして思えば……」
悔やんでも悔やみきれない過去の記憶を、小笹が辿り出す。最上級生として迎えた2000年の秋に刻まれた強烈な悔恨だ。当時の苦い感情が蘇ってきたのか。小笹は呟きながら、小さく首を左右に振った。
「今にして思えば、大きなチャンスだったんですが……」
選手層の厚い3年生に、数は限られていたが4年生の好選手をミックスした2000年のチームは、大化けすることになる。しかし、戦略を決めた小笹たち4年生は、チームのポテンシャルを過小評価しすぎていた。
「春のオープン戦は全敗で、まあ弱かったんです。それはそうですよね。東大アメフト部の3年って、その年の夏にぐんと伸びますから。個々の自覚だって高まりますし」
ところが小笹を含めた4年生は、春の結果に囚われ、恐怖に駆られてしまうのだ。このままだと2部降格もありえるだろう。降格を回避するためには――。
ブロック優勝など端から狙わず、確実に勝てそうな相手から勝利を収める。つまり法政大戦を、捨て試合にすると決めたのだ。全部で6試合あるので法政大戦を除く5試合に勝ち、5勝1敗でプレーオフ進出。それが小笹たち4年生の打ち出した戦略だ。しかも、その戦略を3年生たちには黙っていた。
「でも、うすうす気づいていくわけですよ。夏合宿で帝京対策はやる、日体大対策もやる、でも法政対策はいつまで経っても出てきませんから。勝負をもう捨てていたからです」
事前の対策は、とりわけアメフトでは勝負の肝となる。とくに東大は、対策こそ得意分野のはずなのに、法政大戦の対策だけ一向に出てこない。4年の魂胆を、3年は見抜いていた。
いざ秋の公式戦が始まると、日本体育大学と引き分けた初戦を別にすれば、余裕の勝利ばかりが続く。こんなことなら法政対策をやっておけばと、いくら悔やもうと、もう後の祭りだった。
「法政の同級生が言うには、東大対策ばかりやっていたそうです。今年の東大は絶対に強いからと。なおさら、何をやっていたのかと思ってしまいます。あれだけ大きなチャンスに、なぜ挑もうとしなかったのか……」
小笹たちは法政大に敗れただけでなく、順位確定後の早稲田大学戦にも敗れ、結局3勝2敗1引き分けで3年連続ブロック3位となり、プレーオフ進出はまたしても叶わなかった。
当時の記憶を辿るたびに、小笹は思う。
「大人の視点が入っていたら、あんな後ろ向きの判断はしていなかったでしょうね。大局的な見地から、疑問を呈してくれる大人がいたら、ぜんぜん違っていただろうにと。当時も週末に見てくださるコーチはいましたが、すべて学生主体でという考えがありました。感じたのは、その限界です。運営は学生主体でいいと思いますが、何から何までだと、やっぱり限界があります」
記憶を辿りきると、小笹はいつも同じ感情になる。
「今でも後悔しています。おそらく一生、悔やみつづけます」
※文中敬称略。