時は1995年の秋――。関東1部リーグのBブロックを戦う東大ウォリアーズは、4勝1敗で最終節を迎えていた。最終節で対戦する東海大学に勝てば、自力でプレーオフ進出を決められる。三沢英生は東大の4年生になっていた。
関東1部リーグは、2014年から上層の「TOP8」(8チーム)と下層の「BIG8」(8チーム)の2層構造となるまで、「Aブロック」(7チーム)と「Bブロック」(7チーム)を並列させるフォーマットを採用しており(2005年からABそれぞれ8チームずつに増加)、甲子園ボウルに出場するチームはAB両ブロック1位同士の対戦で決めていた。
プレーオフ制度が導入されたのは1995年度からだ。AB両ブロック2位までの計4チームによるトーナメント方式となり、準決勝、決勝を勝ち抜いた1チームが甲子園ボウルの出場権を手に入れる。
1995年の東大が「ウォリアーズ史上最強だった」と認識しているのは、当事者の三沢だけではない。京都大学ギャングスターズのOBで、大学卒業後はアサヒビールシルバースターの頭脳にもなる深堀理一郎は、後年、三沢に次のように打ち明けている。
――当時のシルバースターがライスボウルで対戦することを想定し、重点を置いてスカウティングしていた大学は東大を含めて5校ほどあった。なかでも東大は、もっとも侮りがたい仮想敵のひとつで、とくにフィジカルは社会人のチームを含めても最強と見なしていた。
実際に東大の陣容は4年生が粒揃いで、とくにオフェンスとディフェンスそれぞれのラインには三沢をはじめとして体格に恵まれた最上級生が多かった。3年生にも少数ながら、学生のオールジャパンに選ばれる山本将之、加藤智治、大場伸一という逸材を擁していた。
プレーオフ出場が懸かった東海大戦の舞台は、プロ野球のロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)が1991年まで本拠地としていた川崎球場だ。オリオンズの試合では観客の数を指折りカウントできると言われるほど閑古鳥が鳴いていたあの川崎球場の内野スタンドが、東海大戦は大入りとなる。東大旋風はそれだけ注目を集めていた。
当時、麻布高校の2年生だった小笹和洋も、東海大戦の観客席にいた。高校の部活動でアメフトをやっていた小笹は、部員の仲間に誘われ、川崎球場を訪れていた。
「今でも、よく覚えています。東大の応援が、ものすごく盛り上がっていましたから」
その東海大戦は、まさかの幕切れを迎えることになる。
東大は8点差以内であれば、負けてもプレーオフに進出できた。しかも、事前の分析を踏まえるまでもなく、実力差は歴然としていたので、東海大にリードを許してハーフタイムを迎えても、三沢はいつでも試合を引っくり返せると高をくくっていた。
試合の残り時間が2分を切っても、東海大にリードを許したままだったが、点差は6点差だったので、そのまま終われば東大がプレーオフに進出できる。ところが――。
観客席の小笹は目を疑った。
「信じられないミスが出たからです」
試合は東海大のキックオフで、再開される。東海大は9点差以上の勝利を収めなければ、プレーオフに進出できない。試合の残り時間はわずかであり、こうした場面のキックオフではオンサイドキックと呼ばれる短いキックを転がし、攻撃権をもぎ取りにくる展開が容易に予想できた。ところが実際には、長い距離のキックを東大陣内に蹴ってきた。
夜間の試合だったので、照明のカクテル光線が、もしかすると目に入ったのかもしれない。東大の選手がキックの軌道を見失い、楕円のボールはその選手の背中に当たり、地面を転がる。そのフリーボールを確保したのは、東海大の選手だった。
攻撃権を得た東海大は、じわりじわりと前進し、試合の残り時間が4秒となったところでフィールドゴールを選択する。決まれば9点差となり、東大はプレーオフ進出を逃してしまう。
オフェンスの選手だった三沢は、一連の攻防を、ずっとサイドラインから見守るしかなかった。第4クオーターは、東大が一度も攻撃権を得られないまま、終わろうとしていた。
なぜ、こんなことになってしまったのか――。
ウォリアーズの快進撃はテレビ番組や全国紙で「東大旋風」と持ち上げられ、本郷の御殿下グラウンドには連日報道陣が詰めかけていた。不慣れな取材で部員たちは浮き足立ち、三沢もその例外ではなく、どこかふわふわしたまま東海大戦を迎えていた。どう報道されるか、格好ばかりを気にして、おまけに対戦相手を舐めていた。そんな自分たちの姿を三沢が客観視できたのは、ある程度の時間が過ぎてからだった。
東海大のフィールドゴールは決まった。
残り3秒で、点差を8点差以内に戻すのは、不可能だった。三沢は涙を流しながら、頭の中は真っ白になっていた。プレーオフを戦うつもりでいたのに、東海大戦が三沢にとってはフットボール人生最後の試合となってしまったのだ。
あれから20年以上が経った今も、三沢は思い出すと悲しくなり、切なくなる。最後まで全力を尽くし、それでも力及ばずプレーオフ進出を逃したのであれば、ここまで引きずることはなかったかもしれない。東大旋風という外野の声に浮き足立ち、報道陣に自分をよく見せようと格好ばかり付けて、さらには相手を舐めてかかっていたのだ。一言で言えば、自滅、に他ならなかった。
当時、高校2年生だった小笹は、大学は父親の母校である京大に進学し、ギャングスターズに入部するつもりだった。しかし、東海大戦を観たその日から考えを改めた。東大でアメフトをやりたい。まだ甲子園ボウルに出場したことのない東大で――。プレーオフ進出を逃し、悔し涙を流す東大の大男たちの中に三沢がいたとは、その時はまだ知らなかった。
三沢が悔やんでも悔やみきれなかったのは、前節の法政大学戦だった。主力をあえて温存して臨み、予想通り敗れていたからだ。
法政大は1992年から2009年までの18年間で、関東王者に15回輝いている。三沢たちはプレーオフの決勝で法政大と再戦するつもりで、手の内を隠しておくためにBブロック5戦目の法政大戦は、2本目と呼ばれる控えの選手を中心に戦っていた。つまり、法政大戦を捨て試合にしていたのだった。
東大は策におぼれ、結局プレーオフ進出は、捕らぬ狸の皮算用となってしまう。Bブロックからは法政大と東海大がプレーオフに進み、結局、法政大がその年の関東王者となっている。
それからおよそ10年後――。「金融アメフトの会」の席上で、三沢はしょんぼりしたまま、深堀の話を黙って聞くしかなかった。
――だってさ、あれは奇跡のようなものだっただろ。東大のアメフト部に、あれだけ人材が集まるなんて。その奇跡をお前たちは物にできなかったんだ。東大の後輩たちはどう思う? あの先輩たちですら、甲子園ボウルは無理だったのかと思うだろ。あれだけ人材が集まって無理なら、もう絶対無理じゃん、て。モチベーションは、そうやって落ちていくものなんだよ。だから、お前らのせいで2部に落ちたんだ。
すっかり黙り込んで話を聞くだけになっていた三沢は、心の声で「こわい、こわい、京大こわい(笑)」と呟きながら、でも深堀の言う通りだと思っていた。
事実、京大ギャングスターズは人材が揃った代に、甲子園ボウル制覇やライスボウル制覇という大きな結果を残している。その実績が後輩たちの心の拠り所となり、俺たちにもできると思わせたからこそ、画期的なブレークスルーとなったのだ。深堀の話はさらに続く。
――ブレークスルーの千載一遇のチャンスを逃したのが、三沢たちだ。シルバースターは真剣に研究していたのに、東大ときたら、ぜんぜんダメだったじゃないか。
そうとどめを刺されて、三沢はぐうの音も出なかった。
もし、その場に小笹がいたら、同じように萎れていたかもしれない。小笹がウォリアーズの一員となったのは、三沢が東大大学院に在学中だった1997年だ。そして、小笹と入れ替わるようにして社会に出て行く三沢と同じように、小笹もまた悔やんでも悔やみきれない選択をしてしまうことになる……。
※文中敬称略。