話は2017年秋のBIG8にさかのぼる。
観客席でウォリアーズの試合を観戦していた好本一郎は、近くの席から聞こえてくるOBたちの会話が気になり、アメフトの試合に集中しきれずにいた。会話の主たちは、どうやら監督の三沢英生に不信感を抱いているようだった。
耳にしたのは不穏な会話だけでない。三沢に当てつけるような野次を、好本が聞いたのも一度や二度ではなかった。
とくに5戦目の国士舘大学戦以降、東大が勝てなくなると、三沢を批判するOBの声は大きくなった。好本が黙って聞いていた批判の中には、おいおい本当か、と首を傾げたくなるものまで含まれていた。
なぜ、そのような状況に陥っていたのか、好本が真相を知るのは後日のことだ。批判という批判は根も葉もないまったくの――臆測――例えば、三沢が監督になったのは私利私欲のためだ――にもとづいているか、ウォリアーズの大改革に前のめりになっていた三沢の言動を少なからず誤解や曲解しているか、あるいは誰にでもストレートに物を言う直言居士の三沢を単純に生意気だと思っているか、おおむねそのいずれかのようだった。
好本もウォリアーズのOBではあるが、1978年に東大を卒業してから40年近く、OBOG会の会合にはほとんど出席していなかった。最初は大企業のサラリーマンとして社業に打ち込み、途中からは外資系企業の経営者としてビジネスを楽しんできた。心の中ではアメフトやアメフト部に深く感謝していたが、現役の学生たちに直接関わろうなどとは思いもよらなかった。
そんな好本も2017年の秋は、ウォリアーズの試合をよく観に行った。プロ経営者という立場では一時的に充電していたのと、ヘッドコーチに森清之が就任したウォリアーズがどう変わっていくか、興味を惹かれていたからでもあった。TOP8昇格を目指している学生たちの成長を楽しみにしていたので、余計に観客席の一部とはいえ監督の三沢に懐疑的な、冷めた反応が気になったのだ。
あの人に聞いてみれば、事情がわかるかもしれない。好本がすぐに思い浮かべたのはOBOG会の重鎮で、学生時代はアメフトを一緒にプレーした3年先輩の藤森義明だ。ウォリアーズの応援席がごたごたしているようですが、いったいあれはどうなっているのでしょうか? 好本はそう切り出し、事情を聞き出すつもりだったが、それはそうと――と、藤森に切り返される。
それはそうと、お前ちょっと面倒を見てくれないか。長期的な視点で三沢と森の二人三脚を支えていく体制を、OBOGの有志で作りたい。その仕組みをちょっと考えてくれ。
藤森からの唐突ないわばその特命を、好本が快諾したのは、この取り組みには大きな意義があると思えたからだ。それに最初の設計図さえきちんと作っておけば、あとは誰かに引き継げるだろうと楽観していたところもあった。しかし、実際に構想を練りはじめると、おいそれと引き継げるような話ではなくなっていく。法人を新たに設立することになるからだ。
当初は、アメフト大学日本一という目標に向けて体制を一新したウォリアーズに見合うだけの、活動資金を工面しやすくなるサステナブルな仕組みを作るだけのつもりが、支援体制をより充実させていくために法人を設立しようという話が具体化していき、3月下旬に入院中の三沢を見舞った頃の好本は、もはや大きな使命感と責任感に駆られるようにもなっていた。
三沢にとっても、プロ経営者として傑出した経歴を持つ好本の加勢は、それこそ渡りに船だった。現場の指導は森に一任していたとはいえ、それ以外のあらゆる改革を一身に――ディレクターの関根恒とアシスタントディレクターの那須歩の大きな助力を得ながらではあったが――担っていた、三沢の負担は小さなものではなかったからだ。
好本の大きな転機は、1978年に新卒で就職した日本電信電話公社(現在のNTTグループ)を10年ほどで辞めた時だ。電電公社に「一生勤めるつもりだった」好本の心境は、1982年の夏から84年の6月までアメリカのニューヨーク州にあるコーネル大学のビジネススクールに社費留学してから、変化していく。
コーネル大学は全米屈指の名門校であり、好本はそこで思い知らされる。周りの学生が志向していたのは、ビジネスのプロフェッショナルとして自分自身を磨いていき、自分自身の市場価値を高めていくキャリアだった。せっせと資金を貯めて、費用が高額なビジネススクールに学びに来ているのは、いずれプロ経営者となり、大海原のどこへでも行ける航海に乗り出していくためだった。
一方、アメリカに留学するまでの好本は、電電公社で出世して、できれば総裁になるつもりでいた。本当にそうなるにしても、出世レースから脱落するにしても、いずれにしてもレールが敷かれた、ゴールが見えているキャリアだった。それとはまったく違ったキャリア、まったく違った人生もありえると、好本は留学してから意識するようになっていた。
日本に帰国してから、電電公社を辞めるまでに5年ほどを要したのは、社費留学させてもらった恩義が小さくなかったからでもあった。当時の電電公社で社費留学できたのは、幹部候補生の中でも選ばれたほんの一握りだけだった。
最終的には「えいや」と清水の舞台から飛び降り、外資系のコンサルティングファームに新天地を求めた。それがプロ経営者・好本の出発点だった。
「ありあまる自分のエネルギーをぶつけていく対象として、日本の大企業でじっと我慢しているのがいいことなのか、という気持ちになりまして。もっとも、当時、そこまで崇高に考えていたわけではないですが(笑)。いずれにせよNTTにいたままだと、20年先までイメージできましたから」
41歳になった1994年には世界的なヘルスケアカンパニーの日本法人で常務取締役となり、1998年にはスターバックスコーヒージャパンに呼ばれ、後に代表取締役COO(最高執行責任者)を任された。ジョンソン・エンド・ジョンソンの日本法人を経て、2005年に移った日本マクドナルドでは上席執行役員CAO(最高総務責任者)を務めている。
ウォリアーズを支援する仕組みを好本が熱心に考えるようになったのは、使命感や責任感からだけではなかった。大学スポーツを取り巻くいわば前時代的な状況を知れば知るほど、持ち前の経営者魂が燃えてきたからだ。
大学本体に財源がなく、学生から徴収する部費とOBOGからの支援などでなんとかやり繰りしている遅れた世界で、どうすればきちんとカネを回していけるようになるだろうか。きちんとした仕組みを作って、世の中に働き掛けた時、どのような反応が返ってくるだろうか。
恩義もあった。好きなビジネスをこれだけエンジョイしてこられたのは、大学時代の4年間、アメリカンフットボールにのめり込んだおかげだ。俺はいったい何者なのだ。そう自問自答する場面になると、好本はこう思う。
俺はフットボーラーだ。
すると、胸の奥のほうからエネルギーが湧いてきて、経営という仕事を心の底から楽しめた。
「失敗したっていいわけですよ。フットボールに、それを教えてもらった気がするんです」
自分と同じような掛け替えのない経験を、アメフトを通して、後輩の学生たちにもしてほしい。好本はウォリアーズから距離を置いている間も、ずっとそう願っていた。だから40年アメフトから離れていながら、アメフト部支援環境整備のための仕組みを作るという大役を引き受けたのも、さほど不思議なことではなかった。
2018年4月のOBOG総会で、現役の学生たちを支援するための新たな仕組みを作ることが決まると、好本は腹を括った。法人の代表理事は、俺がやるしかないだろう。
その時、好本は、まだ知らなかった。
三沢も、森も、知らなかった。
日本のアメリカンフットボール界を大きく揺るがす出来事が、社会問題化していくことを――。
※文中敬称略。