鷲掴みにされるとはこのことか。心臓を強く締めつけられている――。
三沢英生の巨体が悲鳴を上げ、勤務中に救急搬送されたのは、ウォリアーズが横浜国立大学に敗れてからそろそろ2週間という2017年12月15日の日中だった。
その少し前、身体の不調を感じていた三沢は、会議と会議の間のわずかな空き時間に短い休息を取っていた。オフィスチェアの背もたれに大きな上半身を預け、目をつぶり、呼吸を整えようとする。よし、なんとか回復したようだと立ち上がり、歩き出した瞬間だった。心臓がぎゅっと締めつけられ、その場にうずくまる。近くにいた同僚の叫び声が聞こえてきた。
「おい、救急車だ! 誰か救急車を呼んでくれ!」
救急車が病院に着く頃には落ち着きを取り戻していた三沢だが、診断してくれた医師の話を聞きながら肝を冷やしていた。病名を心房細動といい、不整脈の一種という。心臓の上部を構成している心房が痙攣するように細かく震えるのが症状で、症状が出ている間は心房の収縮が不十分なので血液の流れが淀んでしまう。その際に血の固まり(血栓)ができやすくなるのが大きな問題で、できた血栓が何かの拍子に剥がれ、血液の流れに乗って移動し、臓器への血流にふたをしてしまうと大変だ。これが「血栓が飛ぶ」と表現される現象で、血栓が脳に繋がる血管を詰まらせると脳梗塞を引き起こし、最悪の場合は死に至る。
三沢はその頃、以前から患っていた別の病気を悪化させていた。病名を潰瘍性大腸炎といい、発病の原因が明らかではない難病に指定されている。大腸の粘膜が炎症を起こし、トイレに駆け込む回数が増え、出てくるのは血便のような下痢なので、精神的なダメージも残る。発症したのは、外資系金融機関で働いていた最後のほうだ。強烈な人間関係のストレスが原因だったのではないかと、三沢は見当をつけている。
救急搬送された12月15日は、その日のうちに帰宅を許されたが、当面は血栓ができないように血液をさらさらにする薬を服用しなければならない。その薬のせいで今度は潰瘍性大腸炎の症状が酷くなるという、かなり厄介な体調に陥っているというのに、三沢はいつもの笑顔で「大丈夫。まったく問題ありません」と繰り返すのだ。
心房細動で倒れるまでの三沢は、ベンチプレスで180㎏を3回続けて挙げていた。オリンピックで金メダルを通算8個獲得したウサイン・ボルトの当時の体重が94㎏だったそうなので、ボルト並みの2人がぶら下がったバーベルを三沢は持ち上げていたことになる。しかし、それは努力の賜物だった。ウォリアーズの監督になったばかりの頃は、“ボルト1人”を持ち上げるのがやっとだったのだ。
「部員の学生たちと一緒に筋トレをやってみたんです。必死になって、両腕をぐわぁっと持ち上げて、100㎏がぎりぎり1回だけ挙がりました」
ベンチプレスは、それこそ東大を卒業して以来だった。選手時代の三沢は180㎏を挙げていたが、ほぼ20年ぶりで100㎏は上出来だ。バーベルを戻し、三沢が笑顔になりかけた、その時だった。
「監督、身長の割にはたいしたことないですね」
そう呟いたのは、近くで見ていた部員の学生だった。三沢の笑顔は、中途半端なまま、凍りついた。
「カチンときましたよ。それからコソ練に次ぐ、コソ練を重ねて(笑)」
結果、ベンチプレス180㎏という“ボルトのほぼ倍増”に成功していたのだ。三沢のこの努力により、当時のニュートリション担当者が、部員たちの状態を確認するための会話はこうなった。
「今さぁ、チームでいちばん、ベンチプレス挙げるの誰?」
「監督でぇす」
「え~? 君たち、そんなんでいいの?」
「ダメなんですけど、勝てませぇん(苦笑)」
三沢が記録を変動させていたのはベンチプレスだけではない。体重を激しく増減させていた。もともと150㎏(以上?)あったところから50㎏減量し、ウォリアーズの監督に就任した頃は100㎏前後にまで落としていた。そこから「こっそりやるから、コソ練(笑)」という筋トレを積み重ねているうちに体重は130㎏まで増え、膨らんだ太鼓腹を触りたがる者も増えていた。
「試合が始まる前に触ってくるんです。部員のマネージャーとか、かつて僕をだました(笑)田原さんとか」
心房細動を根治するための手術は、2018年3月27日に受けることが決まった。手術までおよそ3カ月半という準備期間を設けるのは、投薬効果によって血栓のリスクをゼロに近づけておくためだった。たとえ心臓の手術がうまくいったとしても、血栓ができていれば術中に飛んでしまって、脳梗塞にもなりかねない。
「三沢さん、20㎏は減量してくださいね」
執刀医から申し渡されていたのは、しっかり薬を飲む、減量する、このふたつだけだった。減量の狙いは、心臓の負担を減らし、手術の成功率を上げるところにあった。最後のその診察日から手術日まで、およそ2カ月。単純計算では1カ月10㎏のペースで、体重を落としていかなければならない。
迎えた3月下旬――。手術の前日から東京慈恵会医科大学附属病院に入院していた三沢は、病室で執刀医と2カ月ぶりに再会する。医師の第一声はこうだった。
「三沢さん、太りましたよね」
「あ、先生、すいません」
たしかに体重は7㎏増えていた。
<動けなくなったのに、食う量が変わらなかったからだよな……>
執刀医は、手術に伴うリスクについて詳しく説明してくれている。いわゆるインフォームドコンセントというやつだ。あれ?
「先生、今、心停止っておっしゃいましたけど、それって死ぬってことですか?」
「そうです」
執刀医は答えながら、三沢に冷ややかな視線を向けてくる。
「先生、もしかして怒ってます?」
「そりゃあ、怒ってますよ。あなたね、減量してこいと言われて、ちゃんと痩せてくる人はいますけどね。でも、太ってきた人は三沢さん、あなたが初めてです」
麻酔のおかげで、手術はほんの一瞬に感じられた。実際には執刀開始から3時間以上が経過していたのだが、この声を聞いたのが数秒前のこととしか思えなかった。
「いやぁ、デブすぎる。重くて動かせない」
横たわった三沢を手術台に移すのに難儀していた、スタッフたちの誰かの声だった。普通はもう麻酔が効いていて、意識を失っている頃だったのだろう。ところが三沢にはまだ効いておらず、はっきりとその声が聞き取れたのだった。
いずれにしても、その程度の代償で済んでよかった。肩の付け根と股の付け根からカテーテルを通し、異常な信号を発していた心房の部位を焼いていく手術はうまくいった。通常、心臓が血液を押し出すポンプとして機能しているのは、心臓の収縮を指令する信号が1箇所だけから出ているからだ。その信号が複数の箇所から出てしまうようになったせいで心房が細かく震えるのが、三沢が手術を受けた心房細動という病気だった。
入院しなければならない期間も1週間で済んだ。手術が成功した2日後、見舞いに訪れた好本一郎は、病室では三沢に会えなかった。病院内のレストランを覗いてみると、三沢は1人で食事をしていた。
「いやぁ、腹が減っちゃって(笑)」
病院食も3食しっかり食べているはずなのに、テーブルの上には少なくとも3人前はあろうかという料理が、ところせましと並んでいた。
※文中敬称略。