<俺って、ダセえ>
楊暁達(よう・しょうた)が自分自身に落胆したのは、東京大学アメフト部が横浜国立大学との大一番に敗れ、チャレンジマッチと呼ばれる入れ替え戦への進出を逃したあとだった。
横国大戦ではもちろん東大の勝利を願っていた。しかし、勝つための最大の努力をしたかと問われれば、答えはNOだった。どこか人任せになっていたのは、楊が大きな怪我をしていたからだ。
東大3年のその秋に、楊が出場できたBIG8の試合は、2017年9月10日に桜美林大学を倒した初戦だけで、その後は欠場を続けていた。右膝の内側側副靱帯を断裂したのは、桜美林戦の次の週の練習中だった。それから3カ月近くが経過した横国大戦でも、戦列を離れたままだった。
横国大に敗れたウォリアーズは4勝3敗で東海大学と並ぶ4位タイに落ち、チャレンジマッチへの進出を逃していた。チャレンジマッチを制すればTOP8に昇格できる。TOP8で優勝すれば関東代表となり、続く東日本代表校決定戦に勝利すれば、大学日本一を決める甲子園ボウルへの出場権を獲得できる。しかし、実際には、TOP8昇格どころか、2部降格の可能性もあった。負ければ降格となる入れ替え戦に回らずに済んだのは、4位で並んだ東海大との直接対決を制していたからだ。ウォリアーズの2017年シーズンは横国大戦で終わり、それまで3年生だった楊は代替わりで新4年生になったばかりだった。
なぜ、横国大に勝てなかったのか。楊は理由を考えようとするたびに、怒りの矛先を自分自身に向けていた。監督・ヘッドコーチの指導体制が一新され、従来よりもはるかに恵まれた環境を与えてもらっていたというのに……。
<俺なんか、怪我を言い訳にしてたじゃん>
たとえ松葉杖をつきながらでも、チームのためにできることはあったはずだ。それなのに気持ちはどんどんアメフトからも部活動からも離れていった。そうでなければ大事な横国大戦を、あんなふうに観ていたはずがない。どこか他人事のように、まあ勝てるでしょと、高をくくっていたからだ。
9月半ばに楊が右膝の内側側副靱帯を断裂したのは、ウォリアーズがチーム練習をしていた時だった。楊の定位置は5人で構成するオフェンスラインの真ん中で、ポジション名をセンターという。ちなみにオフェンスラインの両端をタックル、両端でも真ん中でもない2人をガードといい、タックルは監督の三沢英生が、ガードは17年の主将だった遠藤翔が務めたポジションだ。
攻撃開始の直前、オフェンスラインの5人は横一列に並び、ニュートラルゾーンを挟んで、対戦相手のディフェンスラインと対峙する。
攻撃が始まると、楊たちオフェンスラインは後方に位置する司令塔のクオーターバックをプロテクトするために、身体を張って相手のディフェンスラインをブロックしなければならない。
ヘッドコーチの森清之が「フットボールはライン」と認識している通り、オフェンスラインとディフェンスラインの攻防は戦況を大きく左右する。どれだけ優れたクオーターバックを擁していようと、オフェンスラインが弱く、敵のディフェンスラインを阻止できなければ、有能なその司令塔は潰され、宝の持ち腐れとなってしまう。パスによる攻撃も、ランによる攻撃も、クオーターバックを経由するので、この司令塔が機能しないと、ランニングバックにボールが渡らず、ワイドレシーバーやタイトエンドもパスを受ける役目を果たせない。
チーム練習の途中で楊が重傷を負ったのは、ディフェンスラインによる守りを阻止しながら、味方のランニングバックがランで攻め上がっていくための走路を作っていた時だ。目の前の相手を必死に押しながら踏ん張っていた楊の右足に、ランニングバックをタックルしようと飛び込んできた別の選手が勢いよくぶつかり、右足の太ももの骨とすねの骨をつないでいる膝の4つの靱帯のうち、内側の長い靱帯がぶつりと切れた。しかも切れ方が悪く、根っこからずり上がるようにして切れていたため、通常は不要なはずの手術がこの場合は必要だと診断された。
怪我をした当初の楊は、強い気持ちを持っていた。ちょうどその頃、アメリカンフットボールの競技者として、自分自身の成長を実感していたので、向上心が戦線離脱の落胆に勝っていたのかもしれない。個人的なそうした手応えとは別に、このチームをもっと向上させたいという意欲も持っていた。
楊が東大アメフト部で特殊な部類に入るのは、入部前からアメフトを経験していたからだ。東京都立戸山高校の部活動で、このスポーツを始め、3年生になると都大会での優勝も経験していた。
東大受験のために1年浪人したブランクなどもあり、ウォリアーズでは楊が2年生になった16年の春から試合に出場するようになる。同期の中ではもっとも早く出場機会を与えられたひとりだったが、その頃の楊自身の感覚では先輩たちの「おんぶに抱っこ」で、自分がチームに貢献しているようにはとても思えなかった。3年生になっても成長している実感を持てないままで、担当コーチからも指摘されていた。お前、この半年、ぜんぜん変わってないぞ。
不振をようやく抜け出したのが、17年秋の初戦が近づく夏の終わり頃だった。
<さあ、ここからもう一回、フットボールを上手くなる>
そう意気込んでいた矢先に、膝の靱帯を断裂してしまう。内心、これでようやくチームの役に立てると期するところもあったので、悔しさはさらに大きくなった。
楊が靱帯を断裂するのは二度目だった。高校2年生の秋に左膝の前十字靱帯を断裂した時は、自損と表現できるたぐいの怪我だったので、諦めもついた。
それと比べると今度の大怪我は、いかに不可抗力だったとはいえ自分が起こしたわけではない事故の巻き添えだったので、募っていく悔しさをどこにぶつければいいか、楊はわからなかった。もやもやしたままチーム練習から離れているうちに、気持ちがプツンと切れていた。
ヘッドコーチの森は、怪我には2種類あると考えている。命に関わるか、その後の人生に重大な影響を及ぼす怪我や事故は、絶対に避けなければならない。心臓疾患による突然死や、激しい頭部の打撲や熱中症による死亡事故はもちろん、四肢麻痺など重い後遺症を残す首や脊髄の損傷、さらには網膜剥離などによる失明も、その後の人生に非常に大きな影響を及ぼすことになる。森が、監督の三沢とともに安全対策に力を入れているのは、こうしたクリティカルな怪我や事故の可能性を限りなくゼロに近づけていくためだ。
「それこそ人として成長するためのアメフトなのに、アメフトで命を落としてしまっては意味がないですから、まずここはしっかり区別しています」(森)
怪我のもう1種類は命には関わらず、その後の人生にも重大な影響を及ぼさないたぐいのもので、手足の骨折や靱帯断裂はこちらに含まれる。
「率直に言えば、折れた骨はくっつければいいですし、切れた靱帯はひっつければいいわけです。もしかすると年を取ってから多少は痛みが出てくるかもしれませんが、人生そのものにそこまで大きな影響はありません」
森自身、京都大学の2年生だった秋の試合中に骨折を経験している。骨折の範囲はすねだけでなく足首にまで及び、翌年の年明けからぼちぼち練習を再開したものの、骨片が残っていた足首の痛みは3年の春のシーズンまで続いた。その骨片を除去するクリーニングの手術をして、戦列にようやく復帰できたのは3年の秋のシーズンの途中だった。
アメフトを含めたコンタクトスポーツに怪我はつきものだ。しかし、だからこそ教育的な価値がより高いという見方もできる。森は言う。
「ラグビーもそうですし、ボクシングのような1対1の格闘技もそうですが、実際にやった者にしかわからない恐怖心だったり、痛みだったり、それを克服できた時の喜びだったり、いずれもコンタクトスポーツを通してしか味わえないものですから」
怪我をしたおかげで、わかることもある。
「全員とは言いませんけど、東大生の思考って、たいがい強者の論理なんです。受験勉強で努力して、最難関を突破してきたヤツらですから、往々にして『できない連中は努力していない。文句を言う前に努力しろ』と思いがちになります。それはある面では真理なんですが――」
森の話はこう続く。
「かならずしも努力だけでは、どうにもならないことだってありますよね。向き不向きもあるし、ハンデキャップを持って生まれてくる人もいる。生まれ育った環境が、そもそもスポーツや勉強どころではないという、本人にはなんら責任のない場合もあるわけです」
骨折や靱帯断裂のような怪我にも、不運としかいいようのないものもある。たとえ本人の不注意による大怪我だったとしても、骨や靱帯を修復する治療の多くは、本人の努力だけではどうにもならない。
「もちろん、怪我をしないに越したことはないです。ただ、たとえば松葉杖をつかないと移動もままならないような不自由な生活を実際にしてみて、いくら頑張ってもどうにもならない経験をしておくのは、とりわけ東大生にとっては必ずしも悪いことではないと思います」
痛みを自分の心身で感じた者にしか、他者の痛みは想像できない。強者の論理が成り立たない境遇を実際に味わってみなければ、弱者の気持ちは想像すらできない。治る怪我なら、怪我をする意味は小さくないということだ。
楊もまたその例外ではなかった。大学3年の秋にあの怪我をしていなかったら、怪我から派生した苦悩の日々はなかっただろう。若い時の苦労は買ってでもせよという。若い時の苦悩もまた、同様の価値を持っているのかもしれない。
なぜ、横国大戦で勝てなかったのか。楊は理由を考えようとするたびに、自責の念に駆られていた。俺は怪我を言い訳にして、何もしてこなかった。怪我をする前は、こう思っていたというのに。
<これからは俺が、このチームを引っ張っていく>
4年になったら――。楊は主将に立候補するつもりだった。
※文中敬称略。