春からのオープン戦が6月下旬に終わると、東大アメフト部の活動はいったん止まり、大学の試験もあるので中休みのオフに入る。しかし、2017年夏のそのオフは、早朝7時半からのミーティングが連日続いていた。4年生の焦りがそうさせていた。
「春があんなにボロボロで、それぞれ思っていることをため込んだまま、秋の本番に向かっていいのかという話になりまして」(主務の川原田美雪)
いや、それではまずいと、選手とスタッフを合わせて32人の4年生全員が、連日部室に集まっていた。ここで4年が変わらないと、後悔する最後の1年になってしまう。今、思っていることを全部吐き出そうと、32人一人ひとりが前に立ち、本音をぶつけ合うための時間だった。
主務の川原田にはオフの間に片付けておかなければならないマネージャーの雑務もあり、新たに部室として使うための部屋を本郷キャンパスの近くに借りるという任務を託されていた頃でもあったので、忙しい日々を送っていた。
そんなある日のことだった。雑務のために手を動かしている最中だったか、同じマネージャーの1学年下の後輩から、ふと言われた。美雪さんがやっていることは格好いいです。でも、美雪さんのスピードにぜんぜんついていけません。すごいと思うし、正しいとも思うけど――。後輩のこの告白に、川原田はハッとした。
「私は4年で、もう最後の1年になっていたので、できる限りのことをやりたかった。秋までになんとか(立て直したい)という気持ちが強くなって、たしかに焦っていたんです」
後輩との会話が、それでぎくしゃくしたわけではない。ただ、どんな気持ちで後輩が告白してきたかを想像すると、川原田は「きっと、その通りだ」と思いながら、複雑な思いにならざるをえなかった。それぞれが必死にもがいているからこそ生じる不協和音は、部内の別のところで、より深刻になっていた。
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東大アメフト部のヘッドアスレチックトレーナーにならないかと誘われて、西田成美は悩まざるをえなかった。当時24歳という若さで、経験不足を自覚していたからだ。
「あれだけ多くの部員をひとり(のヘッドトレーナーだけ)で取り仕切るのって、かなり難しいと思いました。そこまでの経験はしてこなかったですし、本当にできるのかって不安要素がすごく多くて。しかも、相手にするのは東大生という頭のいい人たちばかりでしたし」
2017年からウォリアーズの監督となった三沢英生が、大変革に絶対不可欠だと考えていたひとつは、ヘッドコーチがフルタイムで指導できるようになる体制の変更だ。それまでのヘッドコーチ(と社会人コーチ)は週末だけ指導に訪れるサンデーコーチで、平日の練習は学生が主体となって進めざるをえなかった。学生主体と言えば聞こえはいいが、三沢の三顧の礼でヘッドコーチに招かれた森清之の目には、根性論が幅を利かせた典型的な体育会系の練習であり、よくない意味でガラパゴス化しているようにも映っていた。
それはそれとして、大人のスタッフを常駐させなければならない差し迫った理由は、安全面のリスクにあった。アメリカンフットボールは怪我の多いスポーツで、ウォリアーズも試合当日はドクター数名が会場で待機する医療態勢を敷いている。しかし、クリティカルな怪我や事故は試合当日だけでなく、普段の練習でも起こりうる。新監督の三沢は学生たちが卒業後に躍動するためのアメフト部と位置づけているので、安全対策に力を入れるのは至極当然の話なのだ。森をヘッドコーチに招聘したのも、この指導者がアメリカで始まった「ヘッズ・アップ・フットボール」という、より安全にアメフトをプレーするための取り組みを重視し、その啓蒙活動に熱心に携わってきたことを三沢が知っていたからでもあった。
普段の練習から怪我や事故を未然に防ぎ、不幸にも起きてしまった怪我や事故のダメージを最小限に抑えるために、的確な診断と治療が可能なプロのトレーナーをフルタイムで常駐させなければならないと三沢は考えていた。複数の候補者の中から、当時24歳の西田に白羽の矢が立ったのだ。
通常、西田のようなアスレチックトレーナーが持っている日本の国家資格には「はり(鍼)師」、「きゅう(灸)師」、「あん摩マッサージ指圧師」、「柔道整復師」があり、いずれかを持っていれば治療行為が法的にも可能となる(「理学療法士」の資格を持っていれば、怪我からの回復を助ける医学的リハビリテーションも可能となる)。はり師ときゅう師はまとめて「鍼灸師」と呼ばれ、あん摩マッサージ指圧師の国家資格も持っていれば「鍼灸マッサージ師」と称される。資格を多く持っているほうが治療の幅は広がる。例えばはり師は鍼を刺し、筋肉など身体の深部に直接的なアプローチができるが、柔道整復師にそれはできない。逆に柔道整復師は脱臼等の整復ができるが、はり師にはそれができない。どちらも法律上、認められていないからだ。
西田は鍼灸マッサージ師なので、鍼を打ち、お灸を据え、あん摩マッサージ指圧をしてよいと国家資格のお墨付きを得ている。その一方で西田は柔道整復師ではないので、脱臼の治療行為を法律上はできない。しかし、目の前で誰かが例えば肩や指を脱臼し、即座に治療できる人が西田の他に誰もいなければ、緊急避難的に対応するしかない。それは人道上、倫理的に許されることに違いない。念のため付け加えておけば、緊急避難的に対応するための知識と技術を西田は持っている。
16年までウォリアーズのトレーナーチームが抱えていた最大の問題は、そこにあった。国家資格を持った西田のようなトレーナーが常駐しておらず、場合によっては学生トレーナーが緊急避難的に対応するしかない状況が続いていたのだ。安全対策に力を入れる三沢にとっても、現場を預かる森にとっても、それは到底容認できない状況だった。怪我をした選手が治療とリハビリを経て練習や実戦に復帰するタイミングも、学生トレーナーが決めていた。たとえ玄人はだしの知識を学生トレーナーが持っていようと、森には危険な行為にしか映らなかった。
「経験もトレーナーの仕事には大事です。資格も経験もない学生が練習復帰の最終判断を下すのはすごく危険な行為ですし、何かあった場合は、最終判断を下した学生トレーナーが責任を取れるのかという話にもなってくるわけです」(森)
三沢と森は、学生に責任を負わせるわけには絶対にいかないと考えていた。
大きな問題はもうひとつ存在した。三沢と森が主導したメディカル領域とストレングス領域にまたがる方針の変更に、トレーナーチームが拒否反応を示していたからだ。メディカルという「医療行為」と、ストレングスという「フィジカル強化」の両方の領域に影響を及ぼす方針の変更は、具体的にはテーピングの使い方の変更を迫るものだった。目に見える現象としてはテーピングに関する変更であっても、その背後には揺るがせにできない哲学があったので、この問題はこじれていく。
テーピングは極力使わないようにするべきだ。これが三沢と森の考えだった。ウォリアーズの目的は私学強豪を倒すことそのものではない。日本一はもちろん本気で目指すが、目眩ましのような奇策を使って、私学強豪を倒せたとしても大きな価値はない。むしろたとえ負けようと正々堂々真っ向からぶつかっていく。そんな戦い方ができるように鍛え、準備するプロセスにも大きな価値を見出している。だからこそ最重要視しているのは、当たり負けしないフィジカルの強化であり、コンタクトプレーそのものであるタックルやブロックという基本、すなわちファンダメンタルの強化なのだ。鍛えるべきはまず身体であり、身体を過度に保護するためのテーピングは巻かないに越したことはない。
一方、16年までのトレーナーチームは、テーピングを多用していた。その根本にあったのは、そもそも東大生は体力的に劣っているのだから、フィジカル以外の要素で補わなければならないとする考え方だ。ロジックは次のように展開される。
・フィジカル以外の要素の中で、私学強豪の選手たちが中高時代からより時間をかけて習得してきたスキルではとても敵わない。
・東大生の取り柄は頭脳なのだから、戦術や作戦で勝利を目指すべきだ。
・ただし、アメフトで競い合う以上、コンタクトプレーを避けては通れない。
・体力的に劣っている東大生がコンタクトプレーに耐えられるようにするには?
このような発想から“身体を鍛錬”するよりも“身体を保護”すべきと考え、いつしか特殊なテーピングを多用するようになっていた。ただ、この考え方が高じると、過保護にもなりかねない。実際に17年は、練習メニューを考えるSA(スチューデントアシスタント)がやや強度の高いメニューを組むと、トレーナーが難色を示すようにもなっていた。練習が激しいと、東大生は試合をする前に壊れてしまうに違いない、と。
ウォリアーズのヘッドアスレチックトレーナーを引き受けた時、西田はまだ知らなかった。猛反発を受け、神経をすり減らす日々が始まろうとしていることを。
※文中敬称略。