森清之がヘッドコーチを務めてきた鹿島ディアーズは、LIXILディアーズに生まれ変わった※。住宅設備大手の株式会社LIXILがメインスポンサーとなり、企業チームからクラブチームへと形態を変えたディアーズの運営資金をLIXILなどの企業が援助する関係だ。2014年のことである。
鹿島建設アメフト部が廃部になった時点で、ディアーズから円満に離れようとしていた森だが、結局はヘッドコーチ留任の話を飲むことになる。LIXILが森の留任をスポンサードの条件としていたからであり、ディアーズの部員たちも森の続投を望んでいた。
廃部となるディアーズのスポンサーを探していた森にLIXILの経営者を紹介してくれたのが、鹿島建設の経営者のひとりだった。病に倒れた梅田貞夫(元鹿島建設代表取締役会長)もこの経営者と同様、ディアーズと森の行く末を心配していた。
森はかつて、京都大学アメフト部で「たまたまいい思いをさせてもらった後ろめたさ」もあり、就職した大手企業をすぐに辞めている。指導者となってからは、別の後ろめたさを感じるようにもなっていた。
自分ばかり、こんなに恵まれていていいのだろうか。京大アメフト部では名将水野彌一に師事してきた。社会人チームでは樋口廣太郎(元アサヒビール取締役相談役名誉会長)の謦咳(けいがい)に接し、梅田貞夫の薫陶も受けている。樋口と梅田はどちらも、当時の日本を代表していた企業経営者だ。
樋口は1980年代半ばに倒産寸前だったアサヒビールを、大手銀行からの出向で立て直し中興の祖となった。財界の大スターでもあった樋口から、森が学んだひとつはスピード感だ。結論を出すのも、行動に移すのも、樋口は圧倒的に早かった。ただ早いだけではなく、人を巻き込み、動かすエネルギーも大きかった。
「漠然とではありましたが、アサヒビールのようにあれだけ大きい組織でも、企業のトップ次第でこれだけ変わるのか。そこは水野さんにも通じるところで、やっぱり共通しているんだな。そう思いました」
一方の梅田は、とことんまで腹が据わっていた。
「本質をズバッと捉えて、そこに対して正義を貫き、筋を通す。いつもドシっとされていて、こういうリーダーだったら安心してついていけるだろう」
森はそう思った。さらには――
「僕なんかが言うのもおこがましいですけど、器量の大きい、受けた恩を忘れない、親分肌でした。人情味があって、人を大事にする」
こういうのを人間力というのだろうか。梅田の器の大きさに、森は繰り返し感心させられた。
その梅田の下を完全に離れ、クラブチームとして再出発したLIXILディアーズは、1年目の2014年をなんとか乗り切ると、2年目の15年、3年目の16年と徐々に軌道に乗っていく。その反面、気になる変化も生じていた。このままだとチームの消滅もありえるという当初の危機感が、選手の入れ替わりもあり薄れていたからだ。
LIXILディアーズには「森が作った、森のための、森によるチーム」という大きな誤解もあった。森がディアーズのヘッドコーチだけでなく、その運営母体となる株式会社の代表取締役を兼任していたのは、当初の非常事態を乗り切るための緊急避難のような措置だったというのに、だ。
ヘッドコーチと、その任命権を握る法人代表を兼任しているガバナンスの問題は、森自身、一刻も早く解消しておきたかったが、結局そのままの状態でディアーズがクラブチームとなって3年目を迎えていた頃だ。
「森さん、近々お会いできませんか?」
そう誘ってきたのが三沢英生だった。三沢に会い、話を聞くと、東京大学アメリカンフットボール部のヘッドコーチに森を招聘したいと言う。異様なほど前のめりの姿勢で三沢が語ったのは、アメフトを通じて学生を大きく伸ばしていく人材育成を極めるために、ウォリアーズという愛称を持つ東大アメフト部は、本気で大学日本一を目指し、トレーニング、メディカル、ニュートリションなどフルパッケージの変革を進めていくという話だった。三沢はストレートに訴えかけてきた。この大改革に、どうしても森が必要なのだと。
東大が大学日本一に到達するためには、あまりにも険しく、果てしない道を歩んでいかなければならない。関東大学リーグは1部、2部、3部、エリアリーグの4層構造で入れ替え戦もある。1部リーグは上位8チームの「TOP8」と下位8チームの「BIG8」に分かれており、16年の東大は下層のBIG8に所属していた。
関東王者となるためには、まずはBIG8で成績上位(2016年は2位以内)に入り、TOP8の成績下位(7位か8位)との入れ替え戦に進出しなければならない。入れ替え戦に勝ち、TOP8に昇格し、翌年以降のTOP8で優勝して、ようやく関東王者の座に辿り着ける。
2016年のTOP8を構成していたのは、甲子園ボウル優勝回数が21回の日本大学、5回の法政大学、4回の立教大学、2回の慶應義塾大学、さらには甲子園ボウル出場歴5回の明治大学、3回の早稲田大学、1回の日本体育大学、そして中央大学という顔ぶれだ※。
ここに東大が割って入り、関東王者となったとしても、続く甲子園ボウルでは関西学院大学や立命館大学など錚々たる関西勢が立ちはだかる。東大の甲子園ボウル制覇は、至難中の至難と言うしかない。
果てしなく険しいその道のりを切り拓いていけるとすれば「森さんしかいない」と三沢は心の底から信じていた。断られたらどうしよう……。大きなその不安はおくびにも出さず、三沢は森の説得を続けていく。
三沢が語る夢のような話を聞きながら、森は密かに想像していた。
<簡単にできるとは思わない。でも、可能性はゼロじゃない>
なにしろ森は京大アメフト部の出身なのだ。東大は同じ国立大学で、やはりスポーツ推薦も付属高もない。
「もしも僕が私学強豪のアメフト部出身だったら、東大で日本一になるのは、そのイメージすら描けなかったと思います。さすがにそれは無理でしょうと」
アメフトの競技特性も、森を後押しした。スキルは必要だが、足を使うサッカーほどではない。分業制なので一芸に秀でていればいい。ド素人が大学から始めても、比較的短期間で戦力になる。頭脳がかなり物を言うスポーツでもある。戦略や戦術で他の不足分をカバーできる。
<やり方次第で、東大にも可能性はある>
企業チームや日本代表を率いて、自分がどこに面白みを感じるかもわかっていた。
「実力が一定以上の選手を組み合わせて、個々のポテンシャルを発揮させるコーチングよりも、アメフトには多少向いていなくても一生懸命やる選手を育てて、成長していく姿を見ているほうが面白い」
三沢の誘いとは無関係に、こんな想像をするようにもなっていた。
<環境が良くないせいで努力に見合うだけの成果が得られていない、例えば地方の大学でコーチができれば、おそらく自分に向いている>
ヘッドコーチを務めてきたディアーズは、クラブチームへの移行がすでに軌道に乗っている。移行の当初から、森は引き際を探り続けてきた。
<今こそ、どんぴしゃりのタイミングではないか……>
返答を三沢に伝えたのは、ある日の会食中だった。最初に誘われてから何度目の席上だったか――。森の決意を聞いて、三沢は「ちょっとお手洗いに」と席を外した。
鼻の奥からツーンと込み上げてくるものを、抑えきれなかった。トイレの個室にこもると、大きな身体を揺すりながら、三沢は泣いた。
※文中敬称略。LIXILディアーズは2021年に「ディアーズフットボールクラブ」となり、続く2022年には株式会社NSGホールディングスの傘下に入り、新潟県胎内市をホームタウンとする「胎内ディアーズ」へとチーム名を変更。東京都調布市の練習拠点は当面維持しながら、胎内市への10年以内の完全移転を目指している。甲子園ボウルの優勝回数と出場回数は2015年までの数字。