「弱い。だから挑むんだ」 東大アメフト部 大学日本一への挑戦 第10話/全66話(予定)

 京都大学アメフト部を離れる2000年まで、森清之が知る日本アメフト界のカルチャーは京大アメフト部のそれだけだった。だからこそ貴重だったのが、さまざまなチームからさまざまな選手たちが集まる日本代表でのコーチングスタッフとしての経験だ。森は01年から鹿島ディアーズのヘッドコーチを務めるかたわら、03年の夏は「世界選手権」に出場する日本代表のオフェンスコーディネーターを任された。

 国際アメリカンフットボール連盟が主催する世界選手権は1999年に「ワールドカップ」として始まり、2003年、07年と4年ごとに開催されてきた。11年から「世界選手権」へと改称され、15年の第5回大会まで続き、19年に予定されていた第6回大会は4年後の23年に延期されている。

 日本代表の戦績は、優勝、優勝、準優勝、3位、準優勝。ただし、日本が連覇した1999年大会と2003年大会はアメフト大国にしてアメフト先進国のアメリカが不参加で、07年大会以降はアメリカが貫禄の3連覇を果たしている。森は日本代表のオフェンスコーディネーターを03年大会と07年大会で務めた後、11年大会と15年大会はヘッドコーチ(監督)を任された。

「本当にいろんなバックグラウンドの選手がいる」(森)のは、鹿島ディアーズも同じだった。大学までずっとエスカレーター式で進学した私立大学出身の選手から、京大など国立大学出身の選手、さらには地方の大学の出身者まで多種多様の選手と接して、森の視野は広がった。

 企業の実業団チームである鹿島ディアーズの立て直しは、森のヘッドコーチ就任から2年、3年といったところで軌道に乗る。鹿島建設株式会社の当時の代表取締役社長、梅田貞夫のサポートをありがたく思いながら、森は“鶴の一声”には頼らずに、アメフト部が社内で認められるための積み重ねを地道に続けた。

「選手獲得のひとりやふたり、梅田さんにお願いすれば、なんとでもなったでしょう。しかし、人事の担当者は会社のことをいろいろ考えながら採用しているわけです」

 即効性のある劇薬は副作用もそれだけ強く、仮に梅田がトップダウンで事を推し進めた場合にどのような反発が起こるか予想できた。

「僕がヘッドコーチに就任するまでのディアーズの活動を振り返ってみても、即効性がある分、長期的には必ずしもいいことだけではないとわかっていました」

 森が目指したのは、できるだけ梅田の手を借りずに、梅田の願いを叶えることだった。この大人物とじかに接する頻度が増えたのは、梅田の肩書きが鹿島建設の社長から会長に変わり、時間的な余裕が生まれた2005年頃からだ。ディアーズの事務所は当時の鹿島建設本社から徒歩1~2分の雑居ビルにあり、森はちょくちょく呼び出されるようになる。

 たいてい特別な用事はなく、雑談が多かった。森はそうした会話の端々から、梅田が熱く持っている鹿島ディアーズへの特別な思い入れを汲み取った。企業チームだからこそ、続けていく意味がある。社員のためのディアーズなんだ。この原点だけは絶対に忘れるな。企業チームがもう古くさいと言われる時代に、それをどうやったら続けていけるか、よく考えろ。梅田はそう言いながら、やり方には一切口出しをしなかった。

 鹿島の社内からはこんな声も聞こえてくる。アサヒビールがスポンサードしているシルバースターのようなクラブチームに変えてもいいのではないか。いや、ディアーズをクラブチームにするくらいなら、アメフト自体をすっぱりやめよう。梅田がそう力説していたのを森はよく覚えている。社員のためのディアーズなんだと。

 鹿島ディアーズが大きな結果を残すのは、森がヘッドコーチに就任した01年から数えて9年目――。

 2009年度のディアーズは、当時3ステージ制だったXリーグ(社会人リーグ)で、ファーストステージ、セカンドステージ、ファイナルステージと勝ち上がり、優勝決定戦のジャパンエックスボウルでは富士通フロンティアーズを下し、社会人王者に輝いた。

 迎えたライスボウル決勝の対戦相手は、学生代表の関西大学カイザース。試合会場となった東京ドームのスタンドが、ぎっしり人で埋まっている。例年通り1月3日という三箇日最終日の開催ながら、鹿島建設の社員だけでなく、取引先の皆さんや下請け企業の従業員の皆さんまで、大勢が応援に駆け付けてくれていた。森はそれが嬉しかった。

「企業チームの意義って、社員のモチベーションを上げる、一体感を醸成する、伝統的にそういうところにありましたよね。ところが悪くすると、せっかくの休日なのに義務的に応援に駆り出されてしまうとか、試合が出世のための社内政治に利用されてしまうとか、嫌な世界だけになってしまいかねません。試合後はみんなで食事に行くとか、次の日の職場が試合の話で盛り上がるとか、それが企業スポーツのすごくいい部分なんでね」

 想像できるのはディアーズを応援する人たちの気持ちや感情だ。心をワクワク躍らせながら、次の試合を楽しみにする。試合にドキドキしながら熱中し、束の間でも日常の悩みから解放され、勝利を収めれば歓喜し、敗れたら肩を落とす。どんなに悔しくても、次の試合がある。次のシーズンもある。だから心をまたワクワク躍らせる。人生を豊かにする楽しみがディアーズで、幸せを感じ、共有できる掛け替えのないものだ。

 関西大とのライスボウルは好勝負となり、大接戦は劇的な幕切れとなる。16対16の同点で迎えた残り4秒で、攻撃権を持つディアーズがフィールドゴールを狙う。東京ドームのスタンドを埋めた大観衆が息を呑み、見つめるなか、25ヤードのキックは、ゴールポストのど真ん中に決まった。12年ぶりにディアーズがアメフト日本一に返り咲いたその瞬間、森は思い浮かべていた。どこかで喜んでいる梅田の顔を。そして――。

 その時はまだ知る由もなかった。鹿島ディアーズのこれが最後の栄冠となることを。

 ――――◇――――◇――――◇――――

 鹿島建設がディアーズの活動停止を発表したのは、ライスボウル制覇から3年と数カ月後の2013年4月。企業としての業績を落としていただけでなく、代表取締役会長の梅田が体調を崩し社業の第一線から退いていた。

 そうした影響があったにせよ、ちょっと待ってくれ。

 企業スポーツだって、社員がその存在意義を理解し、その価値を認めてくれたら、ずっと存続していける。人が変わろうと、時代が変わろうと、業績のアップダウンが多少あったとしても、続けていける。ディアーズには、そういう仕組みができていたはずだ。会社だって潰れていない。

 森はちょっと待ってくれと思いながら、悔しさとも違う感情に襲われていた。あえて言葉にするなら「むなしさ」が近いのかもしれない。

 これまで10年以上、俺たちがやってきたことは何だったのか。良かれと信じて続けてきた全てを、一瞬で否定された。森にそう感じさせる決定だった。

 せめてもの救いは、部員たちが路頭に迷わずにいられることだった。実業団として活動してきたアメフト部の部員は全員鹿島建設の社員なので、活動停止となっても生活苦に陥るわけではない。

 鹿島建設に限らず、おそらくゼネコン各社に共通しているのが、社員を家族のように大切にする企業風土だ。森自身、鹿島建設の社員になるよう何度も求められたが、それだけは勘弁してくださいと断り続けてきた。

 アメフトというコンタクトスポーツに深く関わっていながら、ヘッドコーチの森自身がフィールドに立つことはない。森自身が激しくコンタクトされて、痛みを感じることもない。そんな立場のヘッドコーチが鹿島建設の社員となり、身分を保障されて、命懸けで試合に臨んでいる選手たちとフラットな関係のままでいられるだろうか。自分だけ安全地帯から試合に臨むヘッドコーチが、命懸けの選手たちと同じ次元で勝利を目指せるとは、森には到底思えなかったのだ。

 社員になるのを拒んできた以上、ヘッドコーチの座はいずれ生え抜きの社員に譲らなければならないとも考えていた。梅田の信念も、もちろん背負っている。

「僕が鹿島でヘッドコーチを務めてきたのは、ディアーズを企業チームのまま存続させるという目的があったからです。チームの存続がダメになったわけですから、ダメになった理由はどうであれ、僕が責任を取らなければいけない」

 森はチームの面々に次のように伝えた。

 みんながこのチームでアメフトを続けたいなら、そうできるようにスポンサーを探すところまできちっと俺がやる。ただし、俺自身はそのチームには関わらない。ディアーズは解散でいいという結論なら、アメフトを続けたい選手には新天地を探す手伝いをする。

 森が勧誘し、鹿島に入社していた選手もいたので、森にしてみればそうするのが当然の理(ことわり)だった。いずれにしても円満に、誰もが前に進んでいけるよう、森は“後処理”に力を尽くすつもりだった。

 それが森なりの筋の通し方だった。

※文中敬称略。

前の記事を見る
次の記事を見る

Written by

株式会社EDIMASS 
手嶋 真彦Masahiko TEJIMA

一覧へ戻る Back to Index