「弱い。だから挑むんだ」 東大アメフト部 大学日本一への挑戦 第9話/全66話(予定)

 1997年夏にNFLヨーロッパから日本に戻った森清之は、年内の残り3カ月だけ、アサヒビール株式会社がスポンサードするアメフトのクラブチーム、シルバースターでコーチを務める。当時のアサヒビール代表取締役会長で京都大学アメフト部の後援会会長でもあった樋口廣太郎に、京大アメフト部監督の水野彌一経由でコーチ就任を要請されたのだ。

 森は1998年から京大アメフト部に復帰すると、続く99年も水野監督の下でオフェンスコーディネーター※を務める。関西1部リーグでの京大は、96年から1位(立命館大学、関西学院大学と3校優勝)、3位、2位、3位という成績を収めている。

 森が京大アメフト部を離れたのは2000年からだ。アサヒビールの樋口(99年から取締役相談役名誉会長)がふたたび森を欲しがり、今度はグループ企業のアサヒ飲料株式会社がスポンサードするチャレンジャーズに招かれた。アサヒ飲料チャレンジャーズはオフェンスコーディネーター(兼ヘッドコーチ)に、京大アメフト部で森の2年後輩だった藤田智を擁していた。その頃、アサヒ飲料の選手だった関学(関西学院大学)出身の山田晋三は、森がディフェンスコーディネーター※に迎えられると知って驚いた。

「超一流のコーチが同時に2人なんて、あんな贅沢、なかなかできません」

 そうした見立て通り、アサヒ飲料は森が加わった1年目にライスボウルを制し、アメフト日本一に躍り出る。山田が驚かされたのは、森の洞察力だった。対戦相手を丸裸にして、ありとあらゆるリスクを抜け目なく想定し、漏れのない対策を講じていたからだ。

 翌2001年は、樋口に代わり京大アメフト部の二代目後援会会長となる梅田貞夫が、森を欲しがった。梅田が当時、代表取締役社長を務めていた鹿島建設株式会社では、アメフトの実業団チームである鹿島ディアーズが活動していた。やはり水野経由でヘッドコーチ就任を打診された森はそのオファーを受けている。

 日本のアメフト界は、その頂点を決めるライスボウルが学生代表と社会人代表で争われてきた通り、大学の部活動と企業チームが中心となってきた。日本で最初にできたアメフトの統括組織は、1934年発足の「東京学生米式蹴球連盟」(現在の関東学生アメリカンフットボール連盟)と言われている。米式蹴球とはアメリカンフットボールを意味する和製語で、その前に「学生」と謳われているように、競技普及の基盤を作ったのは大学だった。当初は立教大学、早稲田大学、明治大学で連盟を結成し、翌35年に慶應義塾大学と法政大学が加盟したと記録されている。

 ライスボウルにしても1982年度までは、大学アメフト部の有力選手が東西に分かれて戦うオールスター戦だった。それが83年度から学生代表と社会人代表の対戦で日本一を決める全日本選手権となり、京大ギャングスターズが初代王者となる最初のライスボウルを森はテレビで観ていたわけだ。

 アメフトの社会人チームは90年代初頭にバブル経済が崩壊するまで、その多くは企業の実業団チームとして増え続け、ライスボウルは83~90年度までの学生代表7勝、社会人代表1勝が、91~00年度の10年間は学生代表1勝、社会人代表9勝と完全に形勢が引っくり返る。ちなみに学生代表の1勝を挙げたのが95年度の京大ギャングスターズだった。

 学生代表が3連勝した01~03年度を経て、04~20年度の17年間は学生代表1勝、社会人代表16勝。企業チームが多数派を占め、外国籍選手も増加した社会人代表が、学生代表を圧倒する図式が固まり、近年は体格差による安全面の懸念も強まり、学生代表と社会人代表が対戦するライスボウルは20年度までで幕を下ろすことになる。

 ただし、社会人代表の優勢はフィールド上の話だった。バブル経済崩壊後の企業スポーツはリストラの対象となり、野球、ラグビー、バレーボールといった競技でも実業団の名門に休部や廃部が相次ぐようになる。

 アメフトに至っては、オフェンスとディフェンスで出場選手が入れ替わるツープラトーンが基本であり、キッキングなどのスペシャルチームも登場する分業制なので、選手の数が非常に多いスポーツだ(大学や高校の部活動で部員数が少ない場合はオフェンスとディフェンスを兼任する)。防具は各自必要であり、コストはそれだけ余計にかかる。

 森が鹿島ディアーズのヘッドコーチを引き受けた01年は、企業チームの多くがすでに逆風に晒されていた。プロサッカーのJリーグが地域密着を掲げて誕生した93年以降は、企業がその広告塔とするか、社員の福利厚生に活用していた実業団チームより、地域に貢献できるクラブチームを歓迎する風潮も強くなっていた。

 鹿島ディアーズは積極的な強化が奏功し、創部からわずか9年目の97年度にライスボウルを制してアメフト日本一となる。直後の98年頃から、日本の企業の実質賃金は減少へと転じていく。鹿島建設でもディアーズに対する社内の風当たりは強まった。アメフトにカネを使うぐらいなら、給料を上げてほしい。アメフトしかできない社員はいらない。そんな声が大きくなるにつれ、肩身の狭い思いをし、疲弊して退部するアメフト部員も増えていく。

 雰囲気がそこまで悪くなっているとは知らず、鹿島ディアーズのヘッドコーチに就任した森は、競技以前の戦略から考えなければならなかった。

「アメフト部が生き残っていくには、どうすればいいだろうか……」

 幸いだったのは、当時の鹿島建設社長が梅田貞夫だったことだ。梅田は89年創部のディアーズの初代部長であり、チームの体制作りに尽力した中心人物だった。

 梅田は強い信念を持っていた。会社の業績がちょっとやそっと傾いたぐらいで、アメフト部を潰すわけにはいかない。そもそも社員の幸せや喜びのために作ったチームがディアーズだ。強化のために優秀な選手も引っ張ってきた。景気が悪くなったからといって、無責任にほっぽり出すなどけしからん。アメフト部を潰すのは会社が潰れる時だ。梅田はこの主張を最後まで譲ろうとしなかった。

 森はまず、鹿島ディアーズの歴史を紐解き、揺り戻しがきているようだと状況を把握する。創部当初から陣容強化に力を入れ、あれだけ早くライスボウルを制しはしたが、アメフト部の練習を優先させるあり方が、景気後退後はネガティブに受け取られるようになっていた。アメフト部はカネがかかるだけで、アメフト部員は社員としては使えない。そう囁かれるまでに失ってしまった信頼を、瞬時に取り戻せる特効薬などどこにもない。

 森は腹を括り、戦力的には苦しくなるが、選手の獲得は鹿島建設の人事部が適性を認めた新入社員に限ることにした。どれだけ優秀な選手だろうと、所定のペーパーテストと人事部の面接を通過しなければ入社できない。目先だけにこだわらず、先を見据えて地道に取り組めたのは、森がスポーツ推薦も付属高もない京大アメフト部の出身だからなのかもしれない。制約された条件の下で、私学強豪たちに挑むのが、京大の宿命なのだ。森はこう思った。

「俺はどちらかといったら、制約の多いほうが面白い。そっちのほうが、向いているんじゃないか――」

 森はディアーズの部員たちに両立を求めた。業務を言い訳にしてアメフトが弱くなってもアカン。アメフトを言い訳にして業務がおろそかになってもアカン。業務がいい加減だと職場で居場所を失い、悪循環でアメフトもダメになる。逆に業務がしっかりできていれば、上司や同僚からの評価が変わる。良い評判が人事部にも伝われば、アメフト部に協力的になってくる。実際にこのような好循環に乗り、デイアーズは信用されるようになっていく。その結果、優れた選手が入部するようになり、強化されたチームは強くなり、結果が出て、社員からの応援も増えていく。それだけではない。アメフトも仕事も両方できたほうが、選手自身の人生が豊かになる。

 傾きかけていたディアーズを立て直すために、森が掲げた理念は次の2つだ。

 仕事とアメフトの両立。

 勝利への徹底的なこだわり。

 両方もともとあったのに、ほこりをかぶっていた理念だった。チームの歴史を辿った森が、ほこりを払い、実際の行動に繋げるようにした。どんな仕事ぶりなら職場で認められ、どんなトレーニングや生活が徹底的に勝利にこだわるチームに必要なのか、具体論に落とし込む。

 森自身にも、組織運営やマネージメントの取り組みが求められた。京大のコーチ時代と比べるとそれこそステークホルダーが多く、やれ株主だ、取締役会だ、取引先だ、労働組合だと、話をする相手も増えた。

 活動資金を自前で作る仕組みも少しずつ整えた。鹿島建設からの運営費に依存していた企業スポーツの枠をはみ出し、会社の業績に応じて予算を減らされても回っていくチームに変えていったのだ。

 森はある結論に辿り着く。

 企業公認のスポーツチームが存在する意義を社員にわかってもらい、その価値を認めてもらう。その上で財政的な基盤を安定させれば――。

「企業チームは存続していける。それこそ会社が潰れてしまわない限りは」

※文中敬称略。アメリカンフットボールのコーディネーターは作戦選択の責任者。攻撃の作戦選択責任者がオフェンスコーディネーターで、守備の作戦選択責任者がディフェンスコーディネーター。ヘッドコーチが選択するのは、攻撃権を更新できるかどうかの4thダウンで陣地回復のためのパントキックを蹴るか、攻撃権更新に挑むギャンブルに打って出るか(もしくはフィールドゴールを狙うか)、タッチダウン後のトライフォーポイントで1点追加できるキックを選ぶか2点追加できるプレーを選ぶか、試合中にタイムアウトを取るか取らないか、など。

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Written by

株式会社EDIMASS 
手嶋 真彦Masahiko TEJIMA

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