「弱い。だから挑むんだ」 東大アメフト部 大学日本一への挑戦 第8話/全66話(予定)

 京都大学アメフト部の専任コーチを、森清之は、23歳からのおよそ10年間務めている。コーチとしての経験不足を、森が自覚できたのは、自分自身で経験を積んでからだった。

「30歳になるか、ならないかくらいまでは、指導スキルも知識も足りず、情熱だけが取り柄でした」

 当時は練習中に熱くなり、選手と取っ組み合いになることすら、ざらにあった。

「時代がそういう時代でしたよね。たとえ選手のほうから先に手を出してきたとしても、何の違和感もなかったですし」

 経験を積んでゆくと、かつての自分は未熟だったと認めざるをえなくなる。ただ、いくら指導スキルや知識を身につけても、それだけでは足りないと思うこともある。情熱こそが、選手たちの心を動かしていたのではないだろうか、と。

 スポーツは本気で勝とうとしなければならない。

 本気で勝とうとするから、全力で取り組める。全力で取り組むからこそ、勝利よりもはるかに大切な何かが手に入る。

 森はいつしか、心からそう信じるようになっていた。

 この理屈自体は、学生時代からわかっていた。しかし、深く信じるようになるまでには時間が必要だった。

「どう表現したらいいんですかね――」

 森は少し考えると、こんなふうに形容した。

「自分の中に沈殿していくように、身体のなかにグッと入ってきた感じです」

 ――――◇――――◇――――◇――――

 1996年2月から3月にかけて、森はアメリカで暮らす機会に恵まれる。「NFLヨーロッパ」のトライアウトに日本人選手が合格し、選手たちのサポート役を頼まれたのだ。森は31歳になっていた。

 NFLと言えば、アメリカ合衆国の各都市に本拠地を構える32チームが頂点を目指してしのぎを削る、世界最高峰のプロリーグである。例年、レギュラーシーズンが9月に始まり、トーナメント方式のプレーオフを経て、勝ち残った2チームが全米王者を決めるスーパーボウルに臨む。

 近年は2月最初の日曜日に催されている※スーパーボウルの経済効果は、1日当りの換算ではサッカーのワールドカップや夏季オリンピックを上回るとも見積もられており、その意味では世界最大のスポーツイベントだ。

 しかしながら、アメリカンフットボールという競技名が物語っている通り、アメフトはアメリカのドメスティックなスポーツであり、いわばこのローカルスポーツを世界各国に普及させていくための試みが、NFLヨーロッパという大会だった。

 NFLの主催で1991年に始まったNFLヨーロッパは、2007年まで途中2年間(93年と94年)の休止期間を挟みながらも15年ほど続く。95年の大会再開後は、ドイツ、オランダ、スペイン、イギリスにチームがあり、97年までは「ワールドリーグ」と称されていた。

 1996年のトライアウトでは、日本人選手4名が合格する。その4人中たまたま2人が京大アメフト部の4年生で、2人とも森が担当コーチを務めていたディフェンスの選手だった。アメリカ国内でのプレシーズンキャンプは、およそ1カ月続く。時間の融通が利いたこともあり、森が帯同を打診されたのだ。

 京大アメフト部は、森が専任コーチとなってから、毎年のように好成績を収めていた。関西1部リーグでは、就任1年目の89年こそ8チーム中5位に終わるものの、90年以降は優勝→1位(関西学院大学と両校優勝)→優勝→2位→2位→優勝と、95年までの同一期間内では関学を上回る好成績を収めている。

 甲子園ボウルも92年と95年の2度制し、95年度はライスボウルでも勝利を収めている※。

 96年に森が頼まれたアメリカ行きは、京大アメフト部のチーム単位での活動が本格的に始まる前だった。

「お前、行ってきたら、ええやんか」

 京大アメフト部を率いる水野監督も、快く送り出してくれた。

 アメリカでの森の役割は想像していたものとは違っていた。森は日本人選手4人をサポートするつもりでいたのだが、実際にはアムステルダム・アドミラルズというオランダのチームにゲストコーチとして迎えられた。現地では普通のコーチとして扱われ、練習にもミーティングにも参加した。

 その後、日本に帰国した森は、京大アメフト部のコーチに戻る。アドミラルズのヘッドコーチから突然電話がかかってきたのはその年の、つまり96年の夏だった。次のシーズンに、森をディフェンスのアシスタントコーチとして採用したい。今度は給料も出すというオファーだった。ゲストコーチの時は、滞在中の経費は負担してくれたが、給料はもらっていなかった。

 このオファーを受けるとなれば、京大アメフト部のコーチを半年ほどは休まなければならなくなる。NFLヨーロッパのシーズンは4~6月の3カ月ほどだが、プレシーズンキャンプや、その前のドラフトから森も関わらなければならない。

 京大を一時的に離れなければならなくなるとはいえ、当時の森には願ってもないオファーだった。アメフトの指導に話を限れば、自信めいたものが多少は芽生えていたからだ。密かにこう思っていた。自分のコーチングがどこまで通用するか、英語を流暢に話せるわけではないが、アメリカでできることならば何年か試してみたい。

「面白いやないか。行ってこい!」

 水野に相談すると、背中を押された。

「お前、行かない選択肢なんか、ないやろ」

 この経験は、その後の森の進路を大きく左右する。

 NFLヨーロッパは、NFLの縮小版だった。NFLと比べれば予算規模が小さく、選手のレベルが少し落ちるというだけで、やっていることは変わらない。アドミラルズのコーチは、森に電話をかけてきたヘッドコーチを含めてほとんどがアメリカ人で、選手もオランダ人5人と日本人1人を除けば全員アメリカ人だった。

 アドミラルズのコーチになった森は、NFLというプロの世界の生々しい裏側を、当事者のひとりとしてつぶさに見ることになる。良いところも、悪いところも両方あった。

 面白いか、面白くないかで判断すれば、アメリカよりも日本で指導者を続けるほうが面白い。NFLヨーロッパでのこの経験は、森にそう思わせるものとなったのだ。

「今のNFLはだいぶ変わってきてると思いますけど……」

 そう前置きして、森は次のような比喩を使う。アドミラルズのコーチたちは、どこか“猛獣使い”のようだった。コーチミーティングでの会話は、選手をいかにプレーブック(作戦集)通りに動かすか、という話に終始した。

「別の言い方をすれば動物のトレーナーというか、調教師というか。いかに躾(しつ)けるか、いかに芸を仕込むか、みたいな感じだったんです」

 選手がどう考えるか。

 選手にどう考えさせるか。

 そうした指導は皆無に近く、育てようという意識はゼロではないにせよ、見方次第ではゼロ同然だ。

 コーチの言う通りにプレーできない選手は首になる。翌日か、2日後には別の選手が加入する。人事権はコーチが握り、口答えしようものなら、たちまち首を切られるので、選手たちは表面上「イエス、サー」と従わざるをえない。どの選手も生活が懸かっているので、絶対服従だ。そして裏では、ぼろくそにコーチをこき下ろす。

 こうしたコーチと選手のいびつな関係性は、NFLに選手を供給するアメリカの有力大学のアメフト部でも当時は似たようなものだった。コーチに逆らおうものなら、給付型の奨学金であるスカラーシップを打ち切られかねない。アメリカの大学で1~2週間の短期だったとはいえ、アメフト部の練習に参加させてもらった経験を持つ森は振り返る。

「もちろん、そうじゃないコーチもいましたし、そうじゃない選手とコーチの関係性もありました。でも、根本的にはコーチが絶対でした」

 これは違う。コーチを続けるなら、日本で続けるほうが面白い。日本の少なくとも大学アメフト部であれば、選手が上手くなる、人間的に成長する、コーチがそういうところに直接関われる。

 アドミラルズからは、もう1年コーチを続けないかと誘われた。しかし、森はその誘いを断った。

※文中敬称略。2022年のスーパーボウルは第2日曜日の2月13日に開催された。ライスボウルは例年1月3日の開催だった。95年度のライスボウルは96年1月3日に開催されている。

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Written by

株式会社EDIMASS 
手嶋 真彦Masahiko TEJIMA

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