「お前、コーチやらんか?」
京都大学アメフト部の監督を長きに渡って務める水野彌一にそう言われて、森清之は二つ返事でギャングスターズの専任コーチとなる。1989年の夏だった。
そこから遡ること5年と少し前に、森が京大アメフト部に入部したのは、いわゆる体育会系とは明らかに一線を画するギャングスターズのカルチャーに強く興味を惹かれたからだ。独特のそのカルチャーは、打倒関学(関西学院大学)に執念を燃やす水野がさまざまな策を練り、試行錯誤の末、醸成されたものだった。
森が水野と初めて顔を合わせたのは1984年の春、場所は京大の近くにあるとんかつ屋の店内だった。とんかつ屋には深堀理一郎という先輩に連れてこられて、森は深堀とふたりで食事をしていたところだった。京大の合格発表の日、掲示板で受験結果を確認し、振り返った森に、おめでとうと声を掛けたアメフト部員が2学年上の深堀だった。
とんかつ屋は京大アメフト部が新入部員の勧誘に使っていた場所のひとつで、監督の水野はそうした勧誘の現場を同じ日に何カ所も回っていたのだろう。アメフト部に入部するかどうか、まだ真剣には考えていなかった森の前に、水野は上下グレーのスウェット姿で現れた。がっちりした体格で、いかにも「強いチームの監督さん」(森)だった。
初対面の水野の印象は強烈だった。ほんの一言か二言、言葉を交わしただけで、その場を去っていった水野が、異様なまでに鋭い眼光を放っていたからだ。
1940年生まれの水野が、京大アメフト部の指導に携わるようになったのは、64年生まれの森がまだ幼児だった65年からだ。水野はアメリカへの留学等を経て74年に監督に就任すると、76年には関西1部リーグの試合で打倒関学の悲願を成し遂げる。ただし1敗同士で並んだ関学とのプレーオフには敗れ、京大初の甲子園ボウル出場は果たせなかった。
京大が国公立大学では初となる甲子園ボウル出場を実現するのは1982年なので、打倒関学を果たしてからさらに6年の月日を要したことになる(78~79年の水野は総監督)。
京大が初の大学日本一に輝いたのは続く1983年だ。水野が指導に携わるようになった65年から数えると19年目の栄冠だった。
1983年12月11日の甲子園ボウルで日大(日本大学)を破った京大は、年明けの1月3日にはライスボウルでレナウンを下し、日本アメフト界の頂点に立つ※。京大が初めてアメフト日本一に登りつめたその試合を、たまたまテレビで観ていたのが高校を卒業して浪人中の森だった。
2011年にギャングスターズの監督を退任した水野は、大偉業と形容できるだけの足跡を残している。甲子園ボウル制覇は通算6度。ライスボウル制覇は通算4度。スポーツ推薦制度も付属校もない国立大学のアメフト日本一は、現時点では水野監督時代の京大しか成し遂げていない。
水野という指導者は、徹底した現実主義者だった。理想は高く掲げている。しかし、理想通りにいかないと先を読めば、瞬時に割り切れる。水野がこう呟くのを、専任コーチとなった森は何度も聞いている。
「本当は、こうやりたいんや。けど、まあ、しゃあないな」
水野が徹底して追求していたのは結果であり、勝利であった。たとえ理想に反していようと、勝てるならこっちだと、すっぱり切り替えられる。現実主義者だからこそ、非常に柔軟で、特定の方法には固執しない合理主義者でもあった。
「自分の好みなんか、平気で脇にのけておきます。その時にできることを最大限やろうと、そういうふうに考えていくわけです」(森)
アメフトの世界最高峰はNFLであり、NFLという世界最高峰のプロリーグを発展させてきたアメリカは、圧倒的なアメフト先進国だ。アメフトのことをよく知る者であればあるほど、この定説に異論はないだろう。もちろん水野も異論はないだろうが、それでも疑いの目を向けた。アメリカで試行されている最先端の作戦だろうと、本場でどれだけ良いと言われている最新のトレーニング理論だろうと、鵜呑みにはしない。
トレーニングのベストな方法は、アメリカ人と日本人で違っているのではないか。
NFLのトッププレーヤーと、京大のアメフト部員でも違っているのではないか。
京大のアメフト部員のなかでも、鍛え上げた4年と青瓢箪のような1年では、違っているのではないか――。
どんな作戦にも指導法にも先入観を持たず、全肯定せず、全否定もしない。いったんきちんと咀嚼して、吟味し、自分たちに合ったものになるようにアレンジを試みる。工夫してみて、導入する場合も、しない場合もある。場合によっては咀嚼も吟味もせず、丸ごとえいやと飲み込んでしまう。
「大学の体育会によくあるのは、監督や先輩から言われるままに、これが伝統だからと無批判に続けてしまう練習や習慣です」(森)
水野監督に率いられた京大アメフト部には、そうした思考停止が一切なかった。森はギャングスターズの専任コーチとなって以来、水野と接する時間が長くなるにつれて、関係の密度も濃くなるにつれて、たびたび気づかされる。水野さんが本当に伝えたかったことは、これだったのか。選手時代の俺は、よくわかっていなかった、と。
森の記憶に残っている限りでは、水野に道徳めいた、人としてかくあるべしといった類いの話を聞かされたことはない。それどころか、森がまだ選手だった頃に、次のように問い詰められたことはある。「お前ら、関学を倒すためなら、悪魔に魂を売る覚悟はできているのか」と。
アメフトに、本気で、取り組め。
水野の要求は、これだけだった。打倒関学を果たすために、森がとことんまで考え、とことんまで工夫し、とことんまで努力したのは、水野の異様なまでの迫力に背中を押され続けていたからでもあった。
だから俺はこんなに変わっていたのか。森が自分自身の大きな変化に気がついたのは、大学を卒業して、ずいぶん時間が過ぎてからだ。
京大を卒業する頃の森は、京大に入学した頃の森とは、別人になっていた。
※文中敬称略。ライスボウルは例年1月3日の開催。83年度のライスボウルは84年1月3日に開催された。