1988年、森清之は京都大学の5年生になる。アメフトに打ち込みすぎて4年では卒業できず、留年を余儀なくされていたのだ。入部から5年目となったギャングスターズではコーチに就任し、後輩たちをサポートする側へと回る。
瞬く間に時は過ぎてゆき、大学での5年目を終えて京大を卒業する日が近づいてきた。人生の節目を前にして森は決めていた。アメフトはもう十分やり切った。大学を卒業するこのタイミングで、区切りをつけよう。
社会人のチームから誘われてはいたが、アメフトとは関わりのない「味の素株式会社」に就職することにした。森が卒業するのは京大の農学部食品工学科(現・農学部食品生物科学科)であり、大手食品メーカーの味の素にアメフト部は存在していない。
森は決めた。どうせ会社に入るなら、社長を目指そうと。
社長を目指すのは、社会的な地位が得たいからでも、金持ちになりたいからでもない。
「アメフト部で目指してきた、日本一に代わる目標です」
味の素は出会う人、出会う人、上司も先輩も同期も好い人ばかりで、入社前に森が想像していた以上に、居心地の良い会社だった。
最初の赴任地は、入社後の研修期間を終えてから決まる。北は北海道から南は九州まで全国どこに配属されるかわからないと言われていたのに、森が勤務を命じられたのは大阪だった。京大アメフト部の練習場まで、北海道や九州と比べれば大阪は目と鼻の先にある。
休日を迎えるたびに、森は京都へ行くようになる。後輩たちの練習台となるためだ。自分の休日なんだし、少しだけ身体を貸すぐらいは、いいだろう。
ところが、そのうち森は葛藤するようになる。後輩たちが苦しむ姿を目の当たりにしていたからだ。ギャングスターズはちょうどその頃、過渡期を迎えていた。
森が4年生だった1987年度に、京大アメフト部は日本の頂点を極めていた。4年生全員が極度の重圧に苦悩し、追い詰められながらも、打倒関学(関西学院大学)を果たして関西王者となり、続く甲子園ボウルで前評判通りに日大(日本大学)を下すと、ライスボウルでは社会人王者のレナウンを圧倒する。京大がアメフト日本一に輝くのは、前年の86年度に続いて2年連続。しかも、学生代表のライスボウル連覇は京大(86~87年度)と日大(88~90年度の3連覇)の2校しか実現していない。
京大の主力としてライスボウル連覇を成し遂げた森には、とりわけ関西王者を決める関学戦が忘れがたい試合となる。最大の大一番なのに、試合が始まるとなぜか、直前までの不安と恐怖がすっかり消えていた。それまでの試合では戦いながら、失敗したらどうしよう、負けたらどうしようと不安や恐怖に駆られていたのに、関学戦ではそうした雑念が一切浮かんでこない。目の前の試合に文字通り没頭できていた。
心を縛られていた桎梏(しっこく)から解き放たれたかのような、初めて味わう感覚のなかで、ギャングスターズの先輩たちが話していた「試合中の自由」とはこれのことだったのかと噛みしめる余裕すら森にはあった。アメフトの試合が楽しいと思えたのは、大学4年間で初めてだった。
ところが、その後、森は後ろめたさのような感情を覚えるようになる。大学3年から4年まで甲子園ボウルを連覇できたのは、たまたま仲間たちに恵まれていたからではなかったか。同期には、名クオーターバックとして日本のアメフト史に名を残す東海辰弥のようなスーパースターをはじめ、好選手が多かった。森たち4年が手薄なポジションの穴は、後輩たちが埋めてくれていた。
事実、京大の甲子園ボウル連覇は「2」で止まる。森が留年して5年生となり、ギャングスターズのコーチとなった1988年の京大は、関西1部リーグを2位で終え、関学に覇権を奪い返された。ちなみに続く甲子園ボウルでは、日大が関学を破っている。
後ろめたさのような感情を覚えるようになったのは、連覇が止まったその頃からだ。俺はたまたま仲間たちに恵まれていたおかげで、あれだけいい思いができたのではないか。あれだけいい思いをさせてもらっておきながら、大学卒業を機に区切りをつけようなどと、アメフトから都合よく離れようとしているのではないか。
「勝ち逃げのようにも思えたし、いいとこ取りのようにも思えました」
味の素で大阪勤務となった森が、週末ごとに訪れる京大アメフト部の練習場で人知れず葛藤するようになったのは、後輩たちが春のオープン戦で思うような結果を残せず、苦しむ姿を目の当たりにしていたからだ。後輩たちの練習台になっているとはいえ、見方によっては気ままにふらっと顔を見せているOBのひとりにすぎない。
「このままヤツらを放っておいていいのだろうか……」
もともと後ろめたさを覚えていたので、森の葛藤はどんどん大きくなっていく。
ちょうどその頃、京大アメフト部は部の運営自体が過渡期を迎えていた。甲子園ボウルの連覇でより注目を集めるようになり、後援会ができたり、より多額の活動資金が得られたりするようにもなっていた。
「監督の個人商店から中小企業のような組織に変わっていかなければならない。そんな時期に差し掛かっていたんです」(森)
これからは誰かが、監督をフォローして、支えていかなければならない。過渡期のそれこそしわ寄せが、後輩たちに及んでいるのではないか……。
そんな考えを森がめぐらせていた、ある日のことだった。
「お前、コーチやらんか?」
監督からふいに誘われた。森は少しも迷わなかった。退職届をすぐ書いて、礼を尽くしながら、味の素に届け出る。ギャングスターズの専任コーチになるための決断だった。
大学を卒業し、就職してから、まだ3カ月ほどしか経っていない。専任コーチになるとはいっても、それで毎月の給料をもらえるわけではない。気心の知れた友人たちには心配された。お前、つまりは無職になるって、わかっていて決めたのか?
両親には事後報告した。父からも母からも何も言われなかった。
「駄菓子の問屋をふたりで細々と営んでいたんですけど、京大を受験した時だって、受験票が届いて初めてそうなんだと知ったぐらいでね。いい大学に入れ、いい会社に入れというようなプレッシャーはまったくなかったですから」
森自身、それが大きな決断だとは思っていなかった。
「たいして先の見通しもなく、悲壮な覚悟ももちろんなく、ただ、こんな俺でもアメフト部や後輩たちの力になれるのなら、と」
まあ、なんとかなるだろう。森がそう思えたのは、真面目にせっせと働く両親の姿を間近で見ていたからかもしれない。
「ちゃんと働いてたら、飢え死にはしないだろうと。あの時、会社をポンと辞められた理由を、あえて探せばですが」
理由は何であれ、不安はなかった。
「アメフトのコーチで身を立てていくなんて、その頃は頭の片隅にもありませんでした」
※文中敬称略。