「弱い。だから挑むんだ」 東大アメフト部 大学日本一への挑戦 第5話/全66話(予定)

 京大に入学した森清之がアメフト部に入部したもうひとつの理由は、そこが関西だったからだ。

「当時、大学スポーツの花形は、東京六大学野球を別格とすると、漠然とした印象ではラグビーでした。国立競技場が満杯になったラグビーの早明戦をテレビで観たりしていましたからね。だから、関西の大学スポーツではアメフトがいちばんメジャーだと、京大に入るまでまったく知らなかった。関西ローカルですけど試合中継もあったし、僕らが入部を勧誘された時もアメフト部のテントにはテレビがあって、京大の試合が延々流されている。すごいなと思いました。関西では大学生のアメフトがテレビで中継されるんだ、お客さんもこんなに入るんだって」

 大学日本一を決める甲子園ボウルの優勝回数は、関西学院大学の32回を筆頭に、立命館大学が8回、京大が6回、関西大学が2回で関西勢が合計48回(引き分けによる両校優勝を含む)だ。関東勢の優勝も計32回とはいえ、その多くは1982年までに記録されている。83年以降は関西勢が32勝、関東勢は9勝(うち2回は両校優勝)と明らかに西高東低となり、関西勢が大きく水を開けている。

 なかでも、関西学院大学ファイターズは名門中の名門であり、関西大学1部リーグでは1948年から81年まで、実に34連覇を成し遂げている(両校優勝となった48年、79年、80年以外の31回は単独優勝)。「打倒関学」という大きな目標を、京大ギャングスターズもずっと掲げてきた。

 関学の長きに渡る連覇を1982年に止めたのが京大アメフト部であった。続く83年もギャングスターズは関西王者に輝いている。森が京大に入学した84年は関学と近畿大学の両校優勝(京大は8チーム中4位)で、森が2年生になった85年は関学が連覇した(京大は2位)。3年になった森が、それまで以上に自らを律し、心身を鍛練するようになったのは、やはり打倒関学を果たすためだった。

 森が3年生の1986年度に、京大ギャングスターズは目標としてきた打倒関学を果たし、関西王者に返り咲く。続いて甲子園ボウルとライスボウルも制してみせた。ギャングスターズがアメフト日本一の称号を得るのは、森の入部後は初めてだった。アメフト日本一の看板を背負って、森は4年になる。

 4年生が感じる重圧は、例年、並大抵のものではない。しかも、森が在籍していた頃の京大アメフト部には、試合に勝とうが負けようが、4年生全員で責任を取ろうとする文化がすでに醸成されていた。仮に下級生が試合の大事な場面で本領を発揮できず、そのせいで負けたとしても、戦いに臨む以前にチームがうまくまとまらなくても、部員の誰かがどれだけ些細な行為であれ、いい加減な振る舞いをしてしまっても、つまり何が起きても全部、4年生全員で責任を取ろうとするカルチャーだ。

 ただでさえ4年生にのしかかるプレッシャーは大きいうえに、森が最上級生となった1987年度は甲子園ボウル(とライスボウル)の連覇が懸かった年だった。甲子園ボウルに出場するには、まずは関学を倒さなければならない。

 下馬評では京大が有利とされていた。戦力の充実度は京大史上最高ではないかとも言われていた。

「前年の優勝メンバーがかなり残っていましたし、東海辰弥をはじめとして僕の同期には良い選手が多かった。4年が手薄なポジションの穴は、後輩たちが埋めてくれました」

 例年通り、関学に挑戦するチャレンジャーの意識は持っていたが、周りはそう見てはくれなかった。なにしろ関西王者になる前から、甲子園ボウル連覇が濃厚だとさえ言われていたのだ。

 森たち4年は日増しに追い詰められていく。打倒関学をいかに果たすか。寝ている以外の時間はそれしか考えなくなっていた。行き着いたのは、こんな強迫観念だ。

「もし勝てなかったら、4年の人間性に問題があったからだ」

 敗因が努力不足にあったとすれば、努力しきれなかった人間性に問題があったからで、精神的にひ弱だったのか、幼かったのか、いずれにしても俺たちの人格の問題だ。森たち4年はそんな重荷を背負い、全人格を懸けて関学戦に臨もうとしていた。

 日々の練習が終わると、誰からともなくこんな叫びが聞こえてくる。

「おい、ヤベえぞ、これで本当に大丈夫なのか!?」

 関学はどうなんだ。もっとハードな練習をしているんじゃないか。いや、してるに決まってる。こんな準備では、まったく歯が立たないかもしれない……。

 練習では限界まで自分を追い込んでいたつもりの森も、恐怖に襲われた。焦りや不安が高波のように押し寄せてくるので、飲み込まれないように気を張っていなければならなかった。きつい練習を繰り返しているのに、疲れは感じなかった。疲労を伝達する神経が麻痺していたのかもしれない。エゴすら消えていた。

「こうしたいという気持ちが、だんだんなくなってきて。自分が試合に出る、出ないもそうだし、自分が活躍する、しないもそう。お前は今日から裏方に回ってくれ。仮にそう言われていたら、喜んで引き受けていたでしょう。それがチームのためになるのであれば。それこそ、全てはチームのために、です」

 自分自身がチームそのものであるかのような、初めての感覚だった。

 チームの重苦しい空気は、関西1部リーグの優勝を決める大一番となった関学戦の当日まで続く。大事なこの試合でもし失敗してしまったら……。そのせいで負けてしまったら……。森の不安と恐怖は、関学戦が実際に始まるまで消えなかった。

※文中敬称略。甲子園ボウルの記録は2022年9月10日現在。

前の記事を見る
次の記事を見る

Written by

株式会社EDIMASS 
手嶋 真彦Masahiko TEJIMA

一覧へ戻る Back to Index