「弱い。だから挑むんだ」 東大アメフト部 大学日本一への挑戦 第4話/全66話(予定)

 森清之がその試合を観たのは、大学受験のために浪人中の1984年1月3日のことだった。少し息抜きでもするかとテレビの電源を入れ、チャンネルを変えていると、NHKでアメフトの試合が中継されている。当時の森は、地上波で放映されていたNFLのスーパーボウルをなんとなく観たことはあったが、アメフトのルールはごく初歩的なものだけを、かろうじて知っている程度だった。

 森はへぇと思った。京都大学が社会人のレナウンと大接戦を繰り広げていたからだ。その日たまたま観た試合が、大学王者と社会人王者の対決でアメフト日本一を決める「ライスボウル」だと知ったのは後日のことだ。観戦と言ってもチラッと観ただけで、京大が勝ったのか、負けたのか、それすら記憶に残っていなかった。

 森がふいにその試合を思い出したのは数カ月後、1984年の春に京大の合格発表をひとりで見に行き、アメフト部の先輩に勧誘された瞬間だ。30年以上前のその場面を、森はいまだに鮮明に覚えている。受験番号がずらっと並ぶ掲示板を確認すると、森は京大に合格していた。親だけには連絡しておこうと、後ろを振り返った瞬間に――。

「声を掛けられました。公衆電話に向かおうとしていた瞬間です」

 京大アメフト部といったら強いはずだ。正月にチラッとテレビで観ただけのあの試合を森は思い出していた。当時は携帯電話もメールもない。合格発表の会場はごった返している。公衆電話は長蛇の列になっているはずなので、早く親に連絡しなくてはとはやる気持ちもあり、森はあまり深く考えず、アメフト部の先輩に言われるまま名前や住所や電話番号を教えていた。

 愛知県名古屋市で生まれ育った森が京大を志願するようになったのは、高校3年時の受験で地元の名古屋大学を不合格になってからだ。中高時代の森はバスケットボール部員だった。大学の受験勉強を始めたのは部活を引退してからで、きっと不合格だろうと予想はついていた。部活ばかりやっていて、勉強はサボっていたと自覚していた。

 予想通り、唯一の受験校だった名古屋大から不合格という結果を突き付けられる。浪人生となった森が志望校を京大に変えたのは、高校3年時のセンター試験で思いのほか好成績を収めていたからだ。

「センター試験の成績がもっと悪かったら、もう一回名古屋大学を受けてたと思うんですよ。ところがたまたまね、勘で答えたとこがほとんど当たって(笑)。かなりの手応えがあったんで、もしかしたら現役で名古屋大学に受かるかもしれないと色気が出ていたんですね。結局不合格でした。それで、来年もう一回名古屋大学を受けるのは胸くそ悪い。そんなとこ、二度と行くかぐらいに思ってしまって。まだ生意気だったんで(笑)」

 翌年の受験で京大に合格し、入学までの時間を名古屋の実家で過ごしていた森に1本の電話がかかってくる。合格発表の際に勧誘されたアメフト部の先輩からだった。実家には手紙も何通か届いて、その中にはギャングスターズの活躍を報じる新聞や雑誌のコピーも同封されていた。ギャングスターズとは京大アメフト部の愛称で、手紙には気軽な気持ちでいいから一度練習に来てみないかと記されていた。

 当時の森は身長184~185㎝で体重は75~76㎏。大柄ではあったが、浪人中は運動をろくすっぽしていなかった。

「当然、身体は鈍ってましたし、ひょろっと背が高いというだけでした。後で知りましたが、京大のアメフト部は片っ端から勧誘の声を掛けるんです。ちょっと背が高いとか、体重が重そうだとか、なんとなくスポーツをやっていそうな雰囲気、そういう匂いがするヤツらにはね。僕も1年後は勧誘する側になっていましたから、それこそ数打ちゃ当たるで、もう手当たり次第です」

 入学式を迎える少し前に森がギャングスターズの練習を見学したのは、熱心に誘われていたので、さすがに一度も顔を出さないのは不義理だろうと思っていたからだ。アメフトへの興味も少しは湧いていた。大学であえてスポーツをするなら、強いチームでやってみたい気持ちもあった。中高時代のバスケ部は県大会にも出場できないくらいの、どちらかと言えば弱小チームだった。

「京大アメフト部は日本一になるぐらい強いチームだから、めちゃくちゃ厳しい練習をしているのだろう。先輩後輩の上下関係だって中高の弱小バスケ部にもずいぶんあったぐらいだから、大学の体育会はもっと厳しいだろうと思っていました」

 ところが京大アメフト部は、いわゆる体育会系とはまるで違っていた。1年生は練習がしんどかったら休めばいいし、嫌になったらいつでも辞めていい。極端な話をすれば、1年生の間はずっと体験入部のままでも構わないと言っている。

 それならばと、森はアメフト部に入部する。前年度の4年生の主力が卒業して抜けていたせいなのか、森はルールもよくわかっていない1年生の春から試合に駆り出され、やがて「いつ辞めてもいいよ」と言う側に回っていた。

 いつ辞めてもいいと言われていた森が辞めなかったのは、入部早々のカルチャーショックが大きな衝撃となっていたからでもあった。なるほど、スポーツにはこういうやり方もあるのかと、目からうろこが落ちたのだ。

「アメフト自体が面白くて続けたわけではないんです。それよりも京大アメフト部に浸透していた文化だったり、その元にある発想だったりが、普通の運動部とはぜんぜん違ってましたから」

 当時はまだ、練習中は水を飲んではいけないと誰もが思い込み、非科学的な迷信がまかり通っていた時代だ。しかも1年生は入部した途端に山ほどある雑用を強要され、一度入ってしまえば退部するのは非常に難しい、そんな運動部が多かった。ところが京大アメフト部には、まったく違ったカルチャーがすでに浸透していた。

「入部からしばらくは、『とにかく頑張るな』と言われてましたから。『頑張れ』ではなく、『頑張るな』です(笑)。1年生は練習にいちばん遅く来て、いちばん早く帰れます。雑用も免除です。いちばん早く来て、いちばん遅く帰るのは1年生ではなく、4年生でした」

 1年生をお客様扱いする理由も合理的だった。そもそも受験を終えたばかりで、浪人上がりの新入部員もいるので、身体はなまりきっている。最低1年以上は鍛えてきた先輩たちと一緒の練習で、体当たりでも食らえば、ほとんどの新入部員は吹っ飛ばされる。痛いし、つらい。そのせいでアメフトの魅力や面白さを知る前に、多くの新入部員が挫折してしまう。京大には狙った戦力を狙った通りに補強できるスポーツ推薦制度がなく、私学の強豪校が主要な選手供給ルートとしている付属高もない。最低限必要な選手の頭数を確保するためにも、できるだけ多くの1年生にアメフトを続けてもらいたいという、京大ならではの――あるいは国公立大学ならではの――事情がある。

 京大アメフト部は練習もきわめて合理的で、根性論とはかけはなれたものだった。

「いきなり練習を始めるのではなく、まずはそれぞれの練習の目的を新入部員がしっかり把握するところから始めます。なぜその練習が必要か、どうすれば身につけられるか。先輩が理由と方法を具体的かつ丁寧に教えてくれます。仮にうまくできなかったとしても、怒られません。どこがどうダメなのか、次はどうやって直せばいいか、指摘してくれます。最初はできなくても、このプロセスをきちんと踏んでおけば、だんだんできるようになってくるからと。その頃の部活動って手本だけ見せられて、とにかくできるようになるまでやれとか、試しにやってみてできなかったら怒られるとか、そんなのばっかりだったんです。へとへとになるまでやったらスゴいとか、ぶっ倒れるまでやるべきだとか、僕らはそんな固定観念を刷り込まれてきた世代です。あの頃大流行していたスポ根漫画の世界でした。そういう時代背景があったので、比較するまでもなく京大のアメフト部はめちゃくちゃ先進的でしたし、やることなすこといちいち新鮮だったんです。練習中、同じグラウンドで活動している他の部活もありましたけど、目に入ってくる活動の様子は中高時代の部活動と基本的にはさほど変わりませんでした」

 森の同期の1年生は100人近くを数えていた。もちろん例外なく、全員がお客様扱いだ。それでも最初の夏休みに入ると、退部する1年生が後を絶たなかった。

「夏ですから動かなくても暑いですし、アメフトは防具を着用しますからね。しんどかったら練習中でも休めたんですけど、それでもキツいし、やっぱり痛い。2年になるタイミングで退部する同期も、3年になってから退部する同期も出てきました。さすがに4年になって辞めるヤツはいませんでしたけど」

 ギャングスターズのOBとなって30年以上が過ぎた今も、森はよく覚えている。いよいよ代替わりの時期を迎え、明日から2年生になるその前日の暗澹たる気持ちを、だ。先輩たちが――4年生はもちろん3年生も2年生も――、それは壮絶な練習に取り組んでいるのを森たち1年生は近くで見てきた。明日からは、もうお客様扱いではなくなる。もう簡単には引き返せない。

「同期のみんなで集まって、代わる代わるため息をついたのを覚えています(笑)」

 森たちの代が4年生になると、当初100人近くいた同期はスタッフを含めて17人に減っていた。森は2年の秋に大怪我で長期離脱を強いられながら辞めなかった。3年から完全に主力となり、4年はアメフトだけの生活となる。しんどいとか、嫌だとか、しょっちゅう思っていたが、辞めようとは思わなかった。いや、思えなかった。

「結局4年の最後まで残ったヤツらは、僕を含めて、やる気が旺盛だったわけでも、意識が特別高かったわけでもないんです」

 俺たち、なんで、最後まで辞めなかったのか――。同期や先輩、後輩とその話になると、必ず同じ結論に辿り着く。辞める勇気がなかったからだ。

「辞めたらいろんな人に迷惑が掛かるし、ケツを割ったみたいでカッコ悪い。つまり、高尚な理由で部活動を全うしたというより、やっぱり辞める勇気がね……」

 別の言い方をすれば、上級生になるほど辞めにくい。森がギャングスターズに入部した頃には、すでにそんな文化が醸成されていた。森にしても誰かに強制されて部活動を続けたわけでも、楽しくてたまらなくてアメフトを続けたわけでもない。

 京大アメフト部のカルチャーを象徴するような話がある。練習をずる休みしたのが1年生なら、ずる休みがバレていても、笑って許される。2年生なら、お前それは違うぞとたしなめられる。万が一4年生がずる休みしたとすれば――。

「即刻退部しろと言われます。そもそもずる休みする4年なんかいません。そんな真似をすれば、二度と部に顔を出せなくなりますからね」

 繰り返すが、京大には狙った戦力を狙った通りに補強できるスポーツ推薦制度はなく、私学の強豪校が主要な選手供給ルートとしている付属高もない。しかし、暗黙の了解のような、不文律のようなカルチャーはできていた。そのカルチャーこそ、難関の受験を突破するまでアメフト未経験の部員たちが、京大入学後に切磋琢磨し、私学の強豪校にも伍して戦える力を蓄えられる源となっていたのだ。

※文中敬称略。

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Written by

株式会社EDIMASS 
手嶋 真彦Masahiko TEJIMA

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