東大大学院修了後の三沢英生は、外資系金融機関でがむしゃらに働いた。短期間でより多く稼がなければならなかったのは、家庭の事情で借金返済の必要に迫られていたからだ。アメフトとの関わりは、時折ウォリアーズの後輩たちの試合を観戦したり、懐に余裕ができてからは部活動の運営費の足しにと寄付するようになったり、複数の大学のアメフト部出身者で作った「金融アメフトの会」でわいわい親睦を深めたりする程度で、将来ウォリアーズの監督に指名されようとは、毛の先ほども想像していなかった。
仕事でアメリカ出張中の隙間時間にNFLの試合を観戦した際も、世界最高峰のプレーに度肝を抜かれはしたが、ただ感嘆して終わりだった。東大在学中はアメフトの当事者だった三沢も、卒業後は熱心にウォリアーズに関与したわけではない。次第に“非当事者”となり、やがて“傍観者”と表現できるような距離感ができていた。
その距離感が劇的に縮むのは、三沢が2013年に外資系金融機関でのキャリアに幕を引き、仕事で直接スポーツに関わるようになってからだ。従来とは違った別の視点でNFLのマッチデーを体験すると、かつての驚嘆は羨望に取って代わった。羨ましいと思ったのだ。アメリカの大学スポーツを視察した時も同じような感情に支配された。心の奥のほうから込み上げてきたのは悔しさだった。
「学生アスリートたちがスポーツに取り組むための環境が、アメリカはとことん充実していますから。出てきたのはため息です。日本で真剣にスポーツに取り組んでいる学生たちが、もちろんウォリアーズの後輩たちを含めて不憫でならなかった。日本だって環境をもっと良くしていけば、多くの学生アスリートがもっともっと成長できるはずなのに」
ウォリアーズの監督就任を打診された三沢がためらいながらも結局引き受けたのは、夢のような願望が、躊躇する気持ちに勝るようになっていたからだ。
<後輩たちにいい環境を作ってあげたい>
監督就任に際し、三沢がウォリアーズの公式フェイスブックに投稿した「所信表明」には、次のくだりがある。「もっといい環境」を必要としている学生は、ウォリアーズの部員だけでも、他のスポーツを含めた運動部員だけでもない。三沢のそうした考えを文章にして綴ったものだ。
(前略)いざ東京大学に入学してみると、入学が目的化しているかのような学生が多く、それが故にお互いを必要以上に尊重するような閉塞的な文化がそこにはありました。私自身もその文化にどっぷりと浸かり、より大きな成長のための人格をかけた魂のぶつかり合い、真のプライドをかけた戦いという「青春の特権」のような体験はすることができませんでした。今思えば痛恨の極みです。卒業後、社会人となり、世界の名門校では、同志がどれほど激しく切磋琢磨しているか、個々の卒業生たちが謙虚に学ぶ姿勢を持ち続けているか、そんな現実をつぶさに見てきました。大変遺憾ではありますが、私には現代における日本の停滞と東京大学の閉塞的なカルチャーが重なって見えておりました。「未来ある後輩たちに、私と同じような思いをさせてはならない」。このことが監督就任を決断した最大の理由です。
アメリカの大学との大きな違いは、運動部をどう位置づけるかというステータスの違いにある。アメリカの大学は運動部の活動を正規の教育プログラムと位置づけているので、財源は大学本体にあり、それを活用してヘッドコーチなど指導者の雇用もできる。スポーツなので怪我や事故も起こりうるが、運動部の活動を正規の教育プログラムとしているアメリカの大学には、できるだけ安全に部活動に取り組めるように環境を整備する責任もある。
これに対して日本の大学は、運動部の活動を任意の課外活動と位置づけている。抽象的な「任意」という言葉を噛み砕けば、「勝手にやっている」という捉え方だ。したがって日本の大学は、ごく一部の例外を除けば、運動部の活動を正規の教育プログラムとは認めていない。
「好きな人が勝手にやっている」という意味で、日本の大学体育会(東大では「運動会」と称されている)は同好会と変わらない。競技レベルがどれだけ高くても、たとえプロスポーツと遜色ない域に達していても、活動の次元は同好会と同じなのだ(お断りしておくが、同好会が良くないという話ではもちろんない)。
大学本体には原則的に財源がないので、部活動を続けていくには自主財源を用意するしかない。それゆえ部員たちは安くない部費を自己負担する必要があり、足りない分はOBOGなどが支援する。ヘッドコーチなどの指導者は手弁当のボランティアに、つまりは有志の善意に頼ることになる。
もちろん例外がないわけではない。日本の大学にも有給のコーチは存在しており、潤沢な財源に恵まれた運動部もあることはある。しかしあくまでも例外だ。アメリカでは当たり前の環境が、日本では特殊な環境でしかない。三沢がウォリアーズの監督を引き受けようと決めたのは、この「特殊な環境」を「当たり前の環境」に変えていくためでもあった。
監督就任の理由はそれだけではない。三沢は身をもって知っているからだ。ウォリアーズで曲がりなりにも経験した切磋琢磨が、どれだけ自分を高めてきたか。仲間たちとの友情が、どれだけ自分を支えてきたか――。大学卒業から何年経っても、むしろ年を経るごとに、ウォリアーズを通して得られた価値は大きくなっていく。掛け替えのないそうした価値を、なんとしても守りたい。
「体育会系」という言葉に否定的なニュアンスがある通り、日本の多くの運動部で理不尽がまかり通ってきたのは事実だろう。ウォリアーズの監督に就任した三沢は、脱体育会系の方針を打ち出す一方で、過去を否定するつもりはないとも打ち明ける。
「東大アメフト部は1957年に創設されました。最初は有志が集まって、練習できるグラウンドを確保するところから始めました。やがて学生連盟に加盟して、毎年毎年試合を戦い続けてきたんです。諸先輩方や、受け継いだ僕らや、後輩たちの積み重ねがあるからこそ、60年を超えるウォリアーズの歴史が続いてきたわけです。ゼロからやり直すと言っても、ひとりでは到底できません」
ウォリアーズの監督に就任した三沢は、この物語に記していく通りの大改革を進めていく。その途上では自身の言動がまるで支持されず、改革の趣旨すら理解されない苦しい時期にも晒された。現役の部員たちを支えるべきOBOGが一枚岩になれずに、三沢は時には面罵され、陰で批判されているのも感じ取っていた。それでも同じOBOGじゃないかという仲間意識は変わらない。ウォリアーズに関わる全員で、この歴史を紡いできたと信じているからだ。
どれだけ憎まれても、憎もうとはしない。そんな三沢の人となりを描写しているかのような記述を、かつての職場であるゴールドマン・サックスに関する書籍から引用したい。
・正直で、よく気がつき、協調性に富んでいる――これらはすべて、入社後、会社の期待に応えていくのに必要とされる資質だ。これらの資質はまた、顧客がゴールドマン・サックスの営業マンに期待する資質でもあった。なかでもいちばん価値が高いのが、正直さである。
・(※ゴールドマン・サックスの)営業マンというのは、人なつこくて外向的で、少しお喋りがすぎるくらい――いや、人と一日中喋っていても苦にならない人間でないとできない職種といえる。そして、つらい局面でも平静を失わず、いくつもの無理難題を同時に処理していく能力も必要とされている。
(グレッグ・スミス『訣別 ゴールドマン・サックス』徳川家広訳)※=筆者注
「大学時代の三沢は今とはまったく違って、どちらかといえば“いじられ役”でした」
そう証言するのは、ウォリアーズで三沢の1年先輩だった関根恒だ。
「間抜けなことを言っては、みんなに突っ込まれる。今でもそういうところは少し残っていますけど、狙って笑いを取るのではなく、結果的に笑いが起きてしまう。そんなヤツでした」
今でも鮮明に覚えているエピソードがあるという。
「練習の後でした。コンビニで買ったおにぎりをみんなで食べている時、三沢が不満げに言ったんです。なんだこれ、ぜんぜん貝が入ってないじゃん!」
どっと笑いが起こり、三沢は方々から突っ込まれる。パッケージをよく見ると、貝(かい)ではなく「具(ぐ)がいっぱい」と印刷されていた。
当時から親しみやすい人柄だった。ウォリアーズの先輩たちは、今でも三沢を「チャック」と呼ぶ。風貌がどことなく、1970年代に放映されたテレビアニメ「ドン・チャック物語」の主人公(可愛らしいビーバーだ)を彷彿とさせるからである。ウォリアーズの監督となってからは、観客席から何度も野次を飛ばされた。おいチャック、こっち向け。
「後輩たちからは“チャックさん”と呼ばれています。ちなみに僕の3学年下の弟もウォリアーズのOBで、いまだに“コチャック”とか“コチャックさん”と呼ばれています。事情を知らない人からしたら、もう何が何だかわからないですよね(笑)」
三沢がウォリアーズの監督就任を要請されたのは、4人のOBで会食していた2016年11月のことだった。前監督の竹之下健三に「三沢が後任監督を引き受けてくれるのが(退任の)条件だ」と直談判された。三沢は即答できなかった。驚きのほうがはるかに勝っていたからだ。まったく予想外の展開だった。
会食の場面で鮮明に覚えているのは、三沢をウォリアーズに引きずり込んだ3学年上の先輩、田原謙一郎の発言だ。会食には1学年上の関根恒も同席していた。田原はこう言った。
「今日さぁ、そんな話になるなんてぜんぜん予想してなかったけど、俺はもともと三沢がいいと思っていたんだよ」
心の中で三沢は呟いていた。
<またか……>
こういう大事な時になると――。
「田原さんがちょいちょい出てくるわけですよ。ホントこの人、好き勝手、言ってるよね~(笑)」
監督就任を要請されたその時、三沢はウォリアーズにユニホームやテーピング等の用具を提供する株式会社ドームの常務取締役という立場だった。ドーム社は2016年からウォリアーズの部員たちのフィジカルトレーニングの面倒も見るようになっていた。
そんな流れがあり、三沢は竹之下にフルパッケージのサポートを提案していた。
「全部任せていただけるなら、最高のヘッドコーチを連れてきますし、メディカルもニュートリションも提供します。全面的なサポートです」
その提案に含まれていなかったのが、監督の交代だ。ウォリアーズの歴代監督は、ゼネラルマネージャーのような役回りを果たしてきた。三沢からのフルパッケージの提案は、竹之下の監督留任を前提とするものだった。
竹之下はこう返答した。
「お前が、後任の監督を引き受けてくれるなら……」
まさかの展開に持ち込まれ、三沢は狼狽していた。監督にのしかかる重責は容易に想像できる。引き受けるには覚悟が必要だ。
当初は自身の監督就任に消極的だった三沢の気持ちが変化していくのは、前述した日米の環境格差を目の当たりにしていたからだ。アメリカのスポーツ環境に羨ましさや悔しさを感じていたのは、紛れもなく三沢自身だった。竹之下に突き付けられた「お前が後任を引き受けてくれるなら」という条件を、三沢は呑む。これも自分の運命なのだろう、と。
※文中敬称略。