東京大学アメリカンフットボール部の新監督に、三沢英生が就任したのは2017年1月のことだった。三沢は東大に入学した1992年にアメフト部の一員となり、大学院時代にはコーチも務めたれっきとした部のOBではあるが、いずれ監督に就任するとは誰も想像していなかった。当の三沢自身も、だ。
1998年に東大大学院を卒業した三沢は、外資系金融機関のゴールドマン・サックス証券会社に就職する。ゴールドマンでおよそ10年バリバリ働くと、モルガン・スタンレー証券会社に移り、最後はメリルリンチ日本証券会社へ。“生存競争”の厳しさで知られる外資系金融の世界で15年を生きながらえ、業界内やその周辺では功成り名遂げていたが、アメフト界には長い空白期間を作っていた。
どこにいても三沢が目立つのは、ひとつはその体格ゆえだ。身長は東大に入学した当初の189㎝からアメフトで背骨の隙間が潰れるヘルニアとなり2㎝縮んでいたとはいえ、それでも187㎝ある。横幅もあり、体重はもっとも重い時で150㎏を優に超えていたかもしれない。胸板は分厚く、腕はそれこそ丸太のようだ。
それだけの巨漢なのに威圧感はまるでない。むしろ接する人をどこかホッとさせる安心感を醸し出している。おちゃらけたキャラクターを演じているわけではないのは、付き合えば付き合うほどわかってくる。穏やかで、陽気で、天真爛漫。気取ったところはまるでなく、語り口は軽妙そのものだ。
「大学に入学した頃、僕はえらいデブだったんです。じゃあ、今はもうデブじゃないのかって言われると、アレなんですけど(笑)」
神奈川県相模原市出身の三沢は聖光学院高校3年生の受験期に、寝る間を惜しんでコーラをがぶ飲みしながら猛勉強に明け暮れた。やけに太っていくなと思いながらもまずは勉強最優先であり、それまでの人生で体重80㎏超えを一度も経験していなかったので、受験当日まで連日4リットルというコーラのカブ飲みをやめなかった。
東大には現役で合格する。念には念を入れて受験勉強していたので間違いなく受かるだろうと自信を持っていたが、実際に合格できてホッとした。
「うちはお金に余裕がなかったから、浪人はできなかったんです。絶対に失敗できなかったので勉強しかしていなくて、みるみるうちに太っていたらしく、友達みんなから、お前太りすぎじゃないかと言われるようになり、そお? と返しながら、たしかにちょっとズボンのベルトがキツいなとは思っていて(笑)」
東大に受かった後、三沢は減量を試みる。入学式の少し前に身体測定があるとわかったからだ。高校時代はテニス部員で、部活を引退し、受験勉強に本腰を入れる前の体重は78㎏だった。
「身体測定までの2週間でベルトの穴が3つぐらい縮みました。これはけっこう痩せたと思って。それでも周りから、お前100㎏は絶対あるからなと言われていて。いやいや、前回78㎏だっただろ。だとしたら90㎏ぐらい。うん、それぐらいだなと」
自信満々に、しかし恐る恐る、三沢は体重計に足を掛けた。計器の針は予想していた以上に大きく動き、三沢は目を疑った。目盛りが118kgを指していたからだ。
「1年足らずで40㎏増えていたわけです。しかもベルトが3つ縮まって118㎏ですからね。マックスはもっといっていた(笑)」
合格発表当日はマックスか、マックスに近い体重だったに違いない。
「当時は合格発表で胴上げができたんです。アメフト部員は身体のデカい受験生に目をつけておいて、背後からすーっと寄っていく。合格していなかったら、静かにすーっと逆戻りします(笑)。合格していたら、おめでとうございますと声を掛けて、そのまま胴上げです」
体重118㎏以上の三沢の背後にも、アメフト部の部員がすーっと近づいていた。
「振り返った瞬間が、ウォリアーズとの出会いでした」
東大アメフト部にはウォリアーズという愛称がある。合格発表会場の三沢は、ウォリアーズのウォの字も知らなかった。アメフト部への興味も少しも持っていなかった。
「東大ではラグビー部に入部するつもりでした。テレビドラマ、スクールウォーズの影響です」
聖光学院高校にはラグビー部が存在しなかった。ならば自分で作ってしまおうと、顧問を引き受けてくれる先生を見つけ、校長先生に掛け合うところまでは漕ぎ着けた。
「危ないからダメ。校長はその一言でした。授業でバッキバキに柔道をやってんのに、なんで? 意味わかんない、と思いましたけど(笑)。そのおかげで僕の夢は、東大ラグビー部に入って当時の2強、早稲田と明治を破る、になりました。その頃は同じ対抗戦グループだったので、直接対決があったんです。東大は全敗でしたけど」
巨漢の三沢はラグビー部からも目をつけられていた。
「身長189㎝、体重118㎏の新入生なんて東大には少ないですからね。ラグビー部の先輩からすぐ来いと言われていたのに、ちょっとだけ時間をもらっていいですか? と。すぐに行けない理由は曖昧にしたまま、5月中には行きますからと」
結局、ラグビー部には入部しなかった。“騙された”からだった。
「大学に入学したらまずは女の子にモテたいなぁと、ちょっと遊んだ時期がありまして。それが落ち着くまでに2カ月弱(笑)。5月の終わり頃、いよいよラグビー部に入ろうと、グラウンドに向かっていたその時でした」
アメフト部の先輩に捕まったのだ。
「おお三沢、今日も飯に付き合えよ」
「え~、今日もいいんですか?」
三沢は連日のように、アメフト部の部員から食事をご馳走になっていた。奢り飯と呼ばれる入部の勧誘だ。ラグビー場に向かっていた三沢を、奢り飯といういわば撒き餌で引き止めたのが3学年上の田原謙一郎という先輩だった。
三沢は田原にこう告げた。僕はラグビー部に入るつもりです。返答する田原も心得ていた。
「ああ、ラグビーか。アメフトと似てるんだよなぁ。ランニングバックというポジションがあってさぁ。ボールを持って、こうやって走るんだ。な、ラグビーみたいだろ。お前みたいなデカいランニングバックが、欲しかったんだよなぁ……」
そんなふうに持ち上げられて、悪い気はしない。ランニングバックというポジションも、なんとなく三沢は想像できた。
「その時点で、もう半分ぐらい、騙されていたんですけどね(笑)」
でも、僕には夢があります。ラガーマンになって明治や早稲田を倒す。そして日本一になるという大きな夢が――。そう言ってきっぱり断ろうとすると、田原に鼻で笑われた。
「ん? ラグビーで日本一? いやいや、そんなの無理だから。でも、アメフトなら、けっこうチャンスがあるだろうなぁ……」
「なんのチャンスが、ですか?」
「そりゃあ、日本一のチャンスだよ」
食いしん坊の三沢は確認した。
「こんな飯が毎回毎回食えるんですか?」
田原は答えた。もちろん食える。毎日食える、と。
「ご飯はラグビー部の先輩も奢ってくれていて。でも、アメフト部のほうがはるかに豪勢だったんです。あれだけご馳走してもらっていたうえに、田原さん以外の先輩たちも口を揃えて言うわけです。お前みたいなデカいランニングバックが、欲しかったんだよなぁ……って(笑)」
こんな飯が毎日? 本当ですか? 最高じゃないですか。そんな言葉とともに三沢はウォリアーズの一員となる。
「奢り飯はすぐになくなりました。あ~これで一個、騙されたなぁって(笑)。でも、ランニングバックはやらせてくれるのかと思っていて」
まだ入部から1週間も経たないそんなある日、4年生の主将がつかつかと三沢のところに寄ってきた。当時は練習後、グラウンドの土をならすのがランニングバックの1年生の仕事で、三沢もトンボをかけていた。
「おい、三沢」
「はい、なんすか?」
「お前、来週から上の練習に来ていいぞ」
上級生が中心の、つまり1軍の練習に参加しろという意味だった。翌週、言われた通りに1軍の練習に顔を出すと、お前はオフェンスラインに入れと命じられた。
三沢はまだアメリカンフットボールのアの字も知らない。オフェンスライン? 要領を得ないまま、わかりましたと真面目な顔で頷いた。
先輩はもっともらしくこう言った。
「いずれランニングバックをやるためにも、まずはオフェンスラインで当たりの基本を身につけておかなきゃな!」
あれから四半世紀以上が過ぎた今なら、詭弁を弄されていたことがよくわかる。ラグビーに置き換えれば、こう言われたようなものなのだ。いずれフィールドを華々しく疾走してトライを奪うセンターをやるために、まずはスクラムを組んでおこう。スクラムをしっかり組める選手になるために、相手の選手と直接組み合う最前列のポジションで基本を身につけておかなきゃな、と。
「この段階ではまだ、いずれランニングバックをやることになっているんです(笑)」
当時18歳の三沢は先輩が語るもっともらしい理由を、これっぽっちも疑おうとはしなかった。困ったのは、その後だ。アメフトの本格的な練習に参加するのは、その日が初めてだったのだ。
「お前、スクリメージに入れ!」
「はい? スクリメージって何ですか?」
「お前、スクリメージも知らないのか!」
いきなり怒られた。
「まあいい。お前のポジションは左タックルだ!」
「え? タックルって何ですか?」
「お前、タックルも知らないのか!」
また怒られた。言われるがまま、そのポジションに入ってみると――。
「レディー。セイ、ハー、ハーという掛け声で周りが一斉に動き始めたので、僕もフッと動いたら、岩のようなトイメンの先輩にドーンとぶつかられて」
思い切り吹っ飛ばされた。うわぁ、これ、ちょっと酷くない? そんな心の声は先輩たちの誰にも届かなかった。
アメフトのアの字も知らず、当然スクリメージが実戦形式の練習を意味していることも知らない三沢が、いきなり1軍の練習に駆り出された事情は追い追いわかってくる。左タックルの先輩がヘルニアで戦線を離脱し、人手が足りなくなっていたからだ。その日から左タックルというポジションが三沢の定位置となる。
アメフトは11人制で、オフェンスラインは5人の選手で構成される。5人が横一列に並ぶオフェンスラインの左端が、左タックルというポジションだ。オフェンスラインはチームの最前線に位置して、対峙する相手のディフェンスラインと身体を激しくぶつけ合う。
味方のクオーターバックが発する「レディー。セイ、ハー、ハー」の掛け声を合図に攻撃が始まり、相手のディフェンスラインは楕円のボールを持っているクオーターバックを潰そうと前進してくるので、三沢たちオフェンスラインは身を挺して相手のディフェンスラインの守りを阻止しなければならない。
文字通り艇身して司令塔のクオーターバックを守るのがオフェンスラインの役割なので、左タックルの三沢が直接ボールに触る機会は限られる。ましてや、自分でボールを持って華麗に疾走するチャンスなど皆無に近い。
2年生になる頃には、三沢も薄々気がついていた。ランニングバックも嘘なんだと。実際にははっきりと気づいていたのに、それでもアメフトはやめなかった。
「面白かったんですよね。高校まで本格的なコンタクトスポーツの経験がなかったからなのか、続けているうちにアメフトはアメフトで面白くなってきた」
左タックルのまま三沢は3年生となり、あっと言う間に最上級生となる。
「騙されていることがはっきりしてからでは、もう遅い(笑)。その時はもうアメフトにのめり込んでいますから」
東大生になって最初の夏休みは「北軽井沢での10泊11日に検見川での3泊4日が続いた悲惨な合宿」に連れ出され、アメフトに明け暮れた。新学期を迎えると、周囲の反応が変化しているのを察知した。この人、ウォリアーズの人だよね。そんな目で見られるようになっていたのだ。9月になると公式戦が始まった。その時はまだ、ふと思うこともあった。
<俺、これをずっとやるのかな?>
半信半疑だった三沢の心境が変化したのは、実際に真剣勝負の場に立ち会うようになってからだ。
「いつの間にか、あれ? って。試合に出場している田原さんや先輩たちの活躍を見ていたら、どこかでこう思うようになっていて。俺もあそこにいたいって」
頭の片隅では、俺は騙されているとも思っていた。
「でもね、別のどこかで思ってるんです。騙されてよかったと」
ちなみに田原とは、大学卒業後しばらくしてから、こんなやり取りをした。
「僕を騙したの、田原さんでしたよね」
「そうかぁ? そんなこと……、ひょっとすると言ったのかもなぁ」
「いや、言ったでしょ(笑)。あれだけ、いろいろ、はっきりと(笑)」
※文中敬称略。